最初は天使だとは思わなかった。
着古した粗末な服を着て、貧相といっていいほど 痩せていて、ありふれた ただの子供。そう思った。
死を邪魔されたくなかった私は、教会の裏庭の隅にうずくまったまま、汚れて得体の知れない大人に驚いて、その場に突っ立っている痩せっぽちの子供に、
「誰も呼ぶな。呼ぶなら、私が死んでからにしてくれ」
と頼んだ。

飢えたホームレスに どんな力があるわけもないのに、子供は――大人も――それを恐れる。
私に そう言われた子供は、すぐさま その場から逃げていった。
見捨てられたとは思わなかった。
これで静かに死ねると思った。
思ったのに――痩せた子供は、日が落ちて 1時間ほど経ってから、再び その場に戻ってきたのだ。
そして、
「はい、どうぞ」
小さな手で、ハムの載ったパンを 私の前に差し出した。
クラフト紙に包まれた硬いパンと安いハム。
こんな粗末な食事をしているから痩せているのだろうに、その子供は心苦しそうに、
「スーブは持ってこれなかったの。ごめんなさい」
と、汚れた浮浪者に謝ってきた。

死ぬつもりでいる人間が、生きようとしている人間から食べ物を奪うわけにはいかない。
そんなことはできないと、死にかけて ぼんやりした頭で、私は思った。
「これは君の夕食ではないのか」
子供が消えていた1時間は、この教会に暮らしているのだろう恵まれない子供たちの夕食までの時間だったのだと、その段になって、私はやっと気付いた。
「スーブは飲んだから平気。僕、もともと いっぱい食べられないの。僕より、おじさんの方が おなかがすいているでしょう?」
「……」

明るい月が出ていた――月の明るい夜だった。
その月明かりの下で――。
おそらく4歳か5歳。
汚くて、世界のすべてを憎んでいる浮浪者の目は恐ろしかったろうに、その小さな子供の瞳は、ただただ気遣わしげで、ただただ優しく、ただただ美しく――。

私には、その子供が 普通の人間には思えなかった。
その人間に思えないものが、私を一人の人間として見てくれている。
私は死ねないと思った。少なくとも、ここで死ぬわけにはいかないと思った。
そんなことになったら、この人間に非ざる美しい人間が、私を救えなかったことになる。
そんな事態を現出させてはならないと、私は思ったんだ。

ちょうど その時、教会の裏口の方から、
「瞬! どこだ。8時に部屋にいないと叱られるぞ!」
という声が響いてきた。
「兄さん! 今 行くよ」
私の天使は、その呼びかけに答えてから、もう一度 私の方に向き直り、
「あのね。朝ごはんには ゆで卵と牛乳が出るの。明日、持ってくるね」
とまで言ってくれた。
私は喜ぶことはおろか、既に感動することすら できなくなっていた。
その尋常でない――異様な出来事に、混乱することしかできなくなっていたんだ。

「明日も? 君が おなかがすくだろう」
「大丈夫。朝はサラダを食べるから」
「どうして……私はただの汚い浮浪者だ」
私に親切にしても、見返りなど期待できない。
『ありがとう』の一言さえ――そんな言葉を平気で口にできるほど、私は素直で謙虚な人間ではなかった。
だというのに、瞬と呼ばれた私の天使は、
「僕より、おなかがすいているでしょう?」
と、不思議そうな目をして尋ねてきたんだ。
私は、これ以上 この天使の食べ物を奪うことはできないと思った。
もちろん、天使の心を傷付けるわけにもいかない。
私は、考えることを放棄して 死にかけていた頭を懸命に生き返らせ、働かせて、天使を傷付けないための嘘を考えた。

「今日……今日、生き延びれば、私は 明日からは どうにかなるんだ。明日からは私は飢えない。明日の朝ごはんは、君が食べなさい」
「ほんと?」
「ああ。だから、私のことは もう気にせず、お兄さんのところに戻りなさい」
「……うん……」
私に促されて、私の天使は 兄の許に駆けていった。
途中で一度 立ち止まって振り返り、心配そうな目で私を見て。

教会の裏庭に一人残された私は、そこで、泣きながら、天使にもらったパンとハムを食べた。
自分の涙が、何のために流れる涙なのか、泣いている私にも わからなかった。
涙と共に私が食べたもの。
それは命の食べ物で、愛の食べ物だった。
味などない。
ただ温かく 豊かな何かだった。

私は その夜、教会の裏庭の隅で、庭を囲む塀に身体を傾け、月を眺めながら考えた。
これは『生きよ』という示唆なのか、それとも 神が(何だ、それは)私の命の最後の時に見せてくれた美しい夢なのか――と。

答えに辿り着けぬまま 朝を迎えた私は、そこで再び天使の声を聞くことになった。
「おじさん。どこ? パンと卵を持ってきたよ」
私は慌てて、昨夜 佇んでいた場所から、別の灌木の茂みの陰に移動し、そこに身を隠した。
これ以上、あの痩せた天使から食べ物を奪うわけにはいかない。
絶対に、そんなことはできなかったから。

私の天使は、優しいだけでなく賢い。
昨夜、私が わざと『もう飢えない』と言ったのだと、天使は察したんだ。
「おじさん。どこ?」
私は、必死に隠れた。
息を殺して――あれは、それこそ 命がけの隠れんぼだった。
そして、木の陰に身を 潜ませながら、私は決意したんだ。
生きることを。

私を救ってくれた天使は、優しく 清らかで、温かく賢い。
だが、その優しさ清らかさのせいで、この人間の世では 虐げられている。
その美しい心に ふさわしい賛美。
その清らかさに ふさわしい敬意。
それを 私が与えてやらなければならない。
そのために――そのために生き続けようと、私は決意した。

天使の朝食を奪わずに済んだ その日、私はプライドを捨て、ただ一人の近親である叔父に すがった。
ぶつぶつ文句を言いながら、叔父は とにかく風呂に入れと、私に言った。
そして、両親が死ななかったら、おまえは ここまで落ちずに踏ん張れたのかと言って、泣いた。
叔父が 厄介者である私を突き放さなかったのは、他に家族のいない叔父が、余命宣告を受けるような癌に侵されていたせいもあっただろう。
私は既に40歳近かった。
今更 勤め人はできない。
叔父の援助で、私は再び 小さな会社を興した。
私は、かつて私を見捨てた者たちの表沙汰にできない情報を 幾つか握っていて、それが私の新規事業の役に立った。
秘匿情報が有効利用できることを、私は その際に 知ったんだ。

3年後、それなりの財と地位を手に入れた私は、私を生き返らせてくれた天使に恩返しをするために、あの教会に行った。
しかし、私の天使は もう そこにはいなくて――兄と共に引き取られた先から、どこか外国に連れていかれたという話を聞いた。
どこに引き取られたのか、誰に引き取られたのか、私の力をもってしても探り出すことができず、天使の行方は杳として知れなかった。
天使の消息は、ぷつりと途絶えてしまっていた。






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