「瞬さん。あなたは憶えていないかもしれませんが」 悲しんでいる者、苦しんでいる者、つらい思いをしている者に手を差しのべるのは、瞬には ごく普通で自然で当然のことである。 瞬は、瞬にとって普通で自然で当然のことをしたにすぎないのだから、財前氏の言葉通り、瞬は幼い頃に自分が生き返らせたホームレスのことなど 憶えていないかもしれない。 ――という、瞬の仲間たちの懸念は、幸いなことに杞憂に終わった。 瞬は、自分が幼い頃、その命を救った浮浪者のことを憶えていたのだ。 「僕……誰かに卵を渡し損ねたことは憶えています。絶対に渡さなきゃならなかったのに、渡せなくて、心配で……」 という、実に微妙な形の記憶で。 「よかった。僕が卵を渡せなかったせいで、誰かが つらい思いをしたのじゃないかと、ずっと気になっていたんです」 一般的には 慈善・善行と見なされる行為を 自分の落ち度という形で記憶しているところが、実に瞬らしいと、瞬の仲間たちは とりあえず財前氏のために思った。 瞬にとっては、そんなふうに曖昧で ぼんやりしている記憶が、財前氏には、彼の人生を決定づける重大な出来事だったのだから、 「巡り会えてよかった。もう二度と会うことはできないのだと思っていた」 感極まった様子で そう告げる財前氏の気持ちは、瞬の仲間たちにも よくわかった。 もちろん、よくわかる。 だが、その感激が なぜ、 「今の私があるのは すべて、瞬さん、あなたのおかげなんです。私のものは、すべて あなたのものだ」 ということになるのかは、瞬の仲間たちには まるで理解できなかったのである。 財前氏にも、本当は わかっているのだろうに。 瞬は、見返りを期待して優しいのではない――ということは。 「面倒な手続きをせず、詮索好きの お喋り雀たちに余計な勘繰りをさせることもなく、私の財をあなたに渡すには この方法がいちばんいい。息子のためにも――あなたの優しさに報いるために 息子を見捨てるような無責任を、私はしたくない」 「あの……財前さん……」 「あなたは美しい。息子が恋に落ちて、どうしても一緒になりたいと言い出したと言えば、誰もが納得するでしょう」 財前氏の計画には、その周囲の人間は納得しても、肝心の瞬が、そして氷河が納得しないのだ。 「先日、息子が こちらに伺ったでしょう。あれは、瞬さんを、信じられないほど美しい目をした人だったと言っていた。あれは妙に硬い男で、一目で好意を抱くなどということは、軽薄な男のすることと思っているので、そういう言い方しかできないのだ。あれは、絶対に瞬さんに心を奪われたのだ」 財前氏の確信に満ちた断言に、氷河が ぴくりと こめかみを引きつらせる。 そんな氷河を気にして、瞬は急いで首を横に振った。 「そんなことは……」 ともあれ、事情はわかった。 事情がわかった今、瞬が為さなければならないことは、財前氏を傷付けることなく、彼の生き方を否定することなく、どうすれば彼の厚意を辞退することができるのか、その方策を考えることだった。 「そうに決まっています。好意を抱いていない人間の目が美しく見えたりすることは ありません」 「え……」 財前氏の その言葉は、瞬に軽い衝撃をもたらした。 これまでアンドロメダ座の聖闘士の瞳に言及した幾人もの敵や味方の言葉と戦いを思い出し、そうだったのだろうかと不思議な気持ちになる。 そして、自分が美しいと思う人たちの瞳を思い浮かべ、そうなのかもしれないと 瞬は思った。 思ってから、今は瞳の美醜などについて考察している時ではないのだと、気を取り直す。 財前氏の言うことが事実だったとしても、“好意”には色々な種類があるのだ。 「そんなことはありません。ご子息は、僕のことなどより――財前さんのことを気に掛けていらっしゃいました。父を喜ばせたい、そのために 父の望みを叶えたいと おっしゃっていた」 「あれが そんなことを……?」 財前氏が 驚いたように、一度だけ 大きく瞬きをする。 それから 彼は、こころもち瞼を伏せた。 財前氏には財前Jr氏の言葉が意外で――そして、意外ではなかったのだろう。 「あれは若い頃の私に似ている。プライドが高く 傲慢で、不器用で、愛することも 愛されることも下手くそで――放っておけなかったのです」 「お優しいところも、お父様に似ておいてです」 それは財前氏には、本当に、心底から、意外な言葉だったらしい。 彼は、その意外な言葉を言った、彼が天使と呼び、神にも等しいと思う人の瞳を じっと見詰め、 「やはり 美しい」 と、しみじみした声音で呟いた。 瞬は、財前氏の その様子、その表情、声、言葉に触れて、彼には彼の資産だけでなく、その心まで受け継いでくれる後継者が ちゃんといるのだから、それらのものは それらのものを受け継ぐ人にこそ渡るようにすべきだと思ったのである。 財前氏は優しい心を持っている。 彼は、彼がどん底にあった時に受けた小さな親切への感謝の気持ちが大きすぎて、少し判断を間違えてしまっただけなのだ。 彼は、事が自分の思い通りに運ばなくても、負の感情を抱くような人ではない。 その事が わかりさえすれば、瞬は策を弄する必要はなかった。 ただ 正直に事実を告げればいいだけで。 「財前さんのご厚意には感謝します。でも、僕には好きな人がいるんです」 だから自分の人生は その人と築く。 余人の力はいらない。 瞬が言葉にしなかった部分を正確に読み取り、財前氏は 短く 苦しげな呻き声を洩らした。 当然である。 それは、彼が 瞬の優しさに報いることはできないと言われたも同然のことだったのだ。 財前氏は、瞬に食い下がってきた。 「……それは……その男は、私の息子より財と才があって、あなたに何不自由ない暮らしをさせ、あなたを一生 守り、あなたを確実に幸福にしてくれる人物なのですか」 「財産とか、そういうものはないんですけど、とても愛情豊かな人です」 「人間が生きていくには、愛情だけでは――」 財前氏は口にしかけた言葉の続きを言えなかった。 言えるわけがない。 彼は愛情で生きのびたのだ。 小さく 幼く非力な子供の愛で、死にかけていた彼は蘇った。 財前氏は 愚鈍ではなく、瞬の前では傲慢な人間でもなかったので――彼は黙った。 瞬が、そんな財前氏に微笑を向ける。 「財前さんの お心がとても嬉しいです。ありがとうございます」 無償の愛、無償の優しさに、金品で報いようとすることの貧しさ。 それこそが非力の証と わかっていても、不器用な財前氏には 他にどうすることができるのかを思いつけなかったのだろう。 思いつけない自分が、財前氏は悔しくてならないようだった。 「もし……その男が甲斐性なしで、この先、何かに困ったり窮したり――苦しいことや つらいことがあったり、愛が消えたりした時には、必ず 私を頼ると約束してください」 「はい。でも、きっと大丈夫です」 「そうですね。瞬さんなら――瞬さんなら、誰かに頼らなくても、誰もが あなたを愛し、助けようとするでしょう。あなたは、部下にも友にも見捨てられた、あの時の私とは違う」 その声は苦いものだった。 瞬が困ったように、視線を床に落とす。 昔の恩に報いたいと願う財前氏の気持ちは有難いと思う。 責めるつもりも なじるつもりもないのだ。 窮地に陥った瞬を助けてくれたのは、瞬の仲間たちだった。 「財前さん。気に病むことはありません。瞬は、誰彼構わず救いの手を差しのべようとするくせに、自分からは決して『助けてくれ』とは言わない人間なんです。我々に対しても そうです」 「そうそう。だから、俺たちが察して、助けに行かなきゃならない面倒な奴なの。差し当たって、あんたが これから瞬のためにしてやれることは、瞬にプロポーズして玉砕した息子のフォローを、瞬に代わってしてやることだぜ。その仕事を うまくやってくれたら、瞬はきっと すごく あんたに感謝すると思うぞ」 「貴様に再会できただけで、瞬は十二分に報われた。瞬は、貴様の引き起こした この馬鹿騒ぎのせいで、途轍もなく幸せになった。それは俺が保証してやる」 三者三様の瞬の仲間たちの救援。 それは、不器用で非力な財前氏の心を慰め、奮い立たせ、安堵させたようだった。 瞬は、仲間たちに愛され、守られているのだと。 それで財前氏は、長いこと その胸の中にあった感謝の念(負い目)が消えたのだろう。 居候たちの言葉使いの悪さを詫びる沙織に、 「沙織さんは、大変 良い居候を世話しているようだ」 と羨ましそうに言って、不器用な息子の許に帰っていったのだそうだった。 |