蘭子は、瞬が自分の要請を断るとは考えていなかったらしい。 あるいは 彼女は、瞬に自分の協力要請を断らせる気はなかったのかもしれなかった。 「ってことで、氷河ちゃん。今夜、瞬ちゃんに お店に来てもらうことにしたわよ。ナターシャちゃんはアタシが預かるわ。あの女に 自分の身の程を思い知らせてやって」 ナターシャに休憩を取らせるために、瞬たちのいる木陰のベンチに戻ってた氷河に、瞬の返事を聞かずに 蘭子が通告する。 氷河の返事も聞かずに、蘭子はナターシャの方に向き直った。 「ナターシャちゃん。今夜は、パパとマーマには大切な お仕事があるの。ナターシャちゃんは 今夜は蘭子お姉ちゃんのおうちに お泊りよ。晩ご飯は 焼きそばがいい? ナポリタンの方が好きかしら?」 「ナターシャ、ケーキがいい!」 力強く 即答してから、ナターシャは、『甘いものばかり食べてちゃ駄目だよ』という瞬の言いつけを思い出したらしい。 彼女は 瞬の顔を窺い見て、 「ナターシャ、エイヨーバランスをカンガエテ、リョクオーショクヤサイのサラダも食べるヨー」 と、先手を打ってきた。 ナターシャは、蘭子の家でのお泊りに かなり乗り気のようだった。 ナターシャは 他の子供たちと違って、蘭子の迫力ある風体に たじろいだりはしない。 パパのお友だちは、ナターシャにとっても お友だち。 パパの仲良しさんは、ナターシャにとっても仲良しさん。――なのだ。 蘭子の提案に乗り気でないのは、おそらく“不快な客”の不快を 最も不快に感じているだろう氷河の方だった。 「瞬に時間を割かせるのは……」 氷河が蘭子のプランに難色を示したのは、自分の店のトラブルは自分で片を付けたいと思っているからか。 あるいは、そんなことも解決できない男と、瞬に思われることが不本意だったからなのか。 問題解決のための具体的プランも持っていない氷河の意見など 聞く価値もないと思っているらしく、蘭子は 氷河の不承知の素振りを、あっさり無視してのけた。 「なに言ってるの。最近 いらしてくれるようになった お客様の中には 瞬ちゃんを知らない人もいるし、1シーズンに1回は瞬ちゃんに お店に来てもらった方がいいのよ。瞬ちゃんより強力な虫除けシートなんてないんだから」 「それは そうだろうが……」 「氷河ちゃんは、真面目に かっこよく働いてる姿を 瞬ちゃんに見せといた方がいいし、日頃の愛と優しさと賢明への感謝の気持ちを示すために、瞬ちゃんに 美味しいお酒も ご馳走してあげた方がいいの!」 「……」 瞬は 特段 酒が好きなわけではない。 むしろ 弱い方である。 蘭子も それは知っているはずなのに、彼女は彼女の理論を押し通すつもりのようだった。 「瞬ちゃんと自分が いかにお似合いか、他人に見せつけてやりたい気持ちも、なくはないでしょ」 「それはまあ……」 何といっても、蘭子は氷河の雇用主。 氷河は、蘭子に 正面切って 蘭子に盾突くことのできない立場にあった。 蘭子が こんな対応策を思いつき、その思いつきを断行しようとする第一の理由は、不快な客を追い払って 蘭子自身が すっきりしたいからなのだということが わかっていても。 「じゃあ、四の五の言わないの。それで決まり!」 それでもまだ 四の五の言いたげな氷河を見て、蘭子が少し 口調を やわらかくする。 「見せびらかしたいような、隠しておきたいような、氷河ちゃんの複雑な気持ちも わからないではないんだけどぉ」 瞬は、持参の水筒に入れてきた麦茶をナターシャに飲ませている。 「トウブンの多いジュースを飲みすぎると、ペットボトルショーコーグンになるんダヨー」 瞬の口癖を すっかり覚えてしまっているナターシャに、瞬は 困ったように苦笑していた。 その様は、どう見ても、おしゃまな娘と、そんな娘を微笑ましげに見守っている優しい母親である。 ナターシャが何者で、瞬が何者なのか。そして、二人の本来の立場と関係を考えると、二人が作っている光景は、異様と言っていいほど 温かく心なごむ光景だった。 「瞬ちゃんのお顔って、特殊よね」 年齢や性別を完璧に無視してのけている瞬を眺めつつ、蘭子が その言葉を繰り返す。 それが 蘭子の本日二度目の言葉だということを知らない氷河は、ほとんど 何も考えず 発言者に頷いた。 「造作だけなら、瞬より綺麗な人間も いないことはないだろうが、一人の人間として、総合的に、瞬より美しい人間は、この地上に存在しない」 「あら、氷河ちゃん。私のこの美貌の前で そんなことを断言するの」 「……」 蘭子は、氷河の雇用主である。 ただの雇用主ではない。非常に よい雇用主である。そして、よい人間。 「蘭子ママは別格――ママの美貌は別次元だ」 処世のための世辞でも おべんちゃらでもなく、皮肉でもなく、冗談でもなく、嘘をつかないために、氷河は蘭子に そう言った。 |