氷河の店の客は 皆 大人である。 好奇心旺盛で 物見高くても、大人の分別を備え、踏み込んではならない一線を心得ている。 服田女史が最後に残していった一言で おおよそのことを察したのだろう。 「今夜も 美味しかった」 「瞬先生、これからも 時々、我々に顔を見せてください」 彼等は、それぞれの『おやすみ』を告げて、静かに店を出ていった。 『 Closed 』のプレートを出して、店内には氷河と瞬の二人きり。 氷河は カンパリオレンジを作って 瞬の前に出してくれた。 氷河のことだから、そのセレクトには何らかの意味が込められているのだろうが、尋ねるのも野暮なので、瞬は、 「切ない味」 とだけ言った。 それが氷河の期待に沿うものだったのかどうかは、わからない。 氷河も気にしていないようだった。 「よくわかったな」 主語も目的語も省略。 瞬は軽く頷いた。 「左右の身体のバランスが、ほんの少し おかしかったし――癌細胞って、特有の匂いがあるんだよ。普通の人にはわからないくらいの。匂いで病巣を発見できるって知って、嗅覚をちょっと鍛えたんだ。普段は 感度を下げてるけど」 「おまえ、どんどん人間離れしてくるな」 『人間離れしていくな』と言わないところを見ると、氷河も自分が普通の人間だという意識が 強くないのかもしれない。 あるいは、水瓶座の黄金聖闘士と乙女座の黄金聖闘士の間に 距離があるという意識がないのか。 多分、後者だろう。 瞬は、氷河ほど人間的な聖闘士を知らなかった。 たとえ どれほど人間離れしようが、アテナの聖闘士は人間。 アテナの聖闘士になることができるのは人間だけなのだ。 「人は誰も、それぞれの場所で、一生懸命 生きているね」 だから守りたいと思う――守らなければならないと思うのだ。 氷河を見詰めていた目を伏せ、オレンジ色の液体が入っているタンブラーの縁に視線を落とす。 昔話をする時、人が それを語る相手の目を見ないのは、今 共にいられる人の瞳の中にあるものは現在と未来だけだからなのだろう。 どれほど長い時を共に過ごしてきた人が相手でも、その瞳の中にあるのは、今と未来だけ。 瞬は そんな気がした。 「アンドロメダ島で、僕、かなり早い時期に 自分の小宇宙の力を自覚したんだよ。僕は ほんの子供で――分別のない寂しがりやの子供で……。みんなに会いたくて――ある時、アンドロメダ島を壊せば 日本に帰れる――日本に帰るしかなくなるんじゃないかと思ったんだ。思って――ふと思っただけで、本当に島を壊してしまいそうになった。海が割れて、空が光でいっぱいになって、そして 真空の闇に覆われて――-僕は、本気で願えば 僕には世界を壊す力があると知った。すべての命を消し去ることもできると知った。恐かった」 「そうか」 瞬なら、ありそうなことである。 自分の力を 完全に自分で制御できるようになる以前、瞬の戦いは 常に、自分の力を解放することとの戦い、抑制の戦いだった。 「あの時、僕は 人を傷付けることを嫌う人間にならなきゃならないんだと思ったんだ。人を傷付けるなんて、僕は絶対に そんなことを考えちゃ駄目なんだって」 (地上の平和とアテナの)敵を倒す術を会得するための修行を積んでいる中で、そんなことを考えていた聖闘士候補は、長い聖闘士の歴史の後にも先にも 瞬以外に存在しないだろう。 瞬にとって、聖闘士になるための修行が どれほど つらいものだったか。 であればこそ、今の瞬の強さがあるのだろう。 それは わかっていても、氷河は やはり切なかった。 「キリスト教では、実際の行為だけじゃなく、良くないことを心に思い描くだけでも、それを罪と見なすでしょう? 法律は、人を憎んでも 妬んでも、それだけなら罪とはされない。何らかの行為が行われなければ、人は罪を犯したことにはならない。でも、キリスト教では、人を憎むことも、妬むことも、人の物を盗もうと思ったり 人を殺したいと考えるだけでも罪になる」 「情欲を抱いて女を見る者は、既に心の中で姦淫を犯している――。マタイによる福音書だったか。とんでもないな。清らかな おまえのせいで、俺は毎日 罪を犯していることになる」 「僕、以前は、あれは、すべての人間を罪人にして 神に すがらせようとするための方便だと思っていたんだけど――」 「今は違うと思うのか」 瞬は水瓶座の黄金聖闘士を つみびとだと思っているのか、いないのか。 氷河は 見事に 情欲の告白を聞き流されてしまった。 「そういう計算もないではないんだろうけど――人は、考えているだけのつもりでも、いつも考えていると、その考えを いつか言葉にしてしまうから……。そして、言葉にすると、その言葉を いつか行動に移してしまう。行動は いつか習慣になる。習慣は人格になり、人格は運命になる。そして、その人の人生を決めてしまう。聖書の警句は、そうなることを戒めているんだよ」 「俺の情欲が とんでもないところに行き着いてしまった」 「愛は いいの」 情欲から離れない氷河を、瞬が“愛”で黙らせる。 『それは老獪な すり替えだ』と非難するわけにもいかず、氷河は 肩をすくめた。 「だから 僕は、攻撃的なことや残酷なことは考えない。人を憎んだり妬んだりもしない。僕は 自分を人を傷付けるのが嫌いな人間だと思っていなければならないと思った。実際、考えないようにして、考えたことはない」 瞬の内罰的傾向が強すぎるのは、人を傷付けることを考えまいとするあまりのこと。 そういうところから来ているらしい。 瞬の清らかさは、無知によるものではなく、天性のものでもなく、強固な理性と意思力のたまものなのだ。 幾つになっても――大人になっても――失われないのも道理である。 「力がありすぎる人間ほど、自分を律する必要があるというわけだ」 「綺麗ごとじゃないんだ。本当に綺麗でいなきゃならない。いつもいつもいつも――。僕が自分の力の呪縛から逃れられるのは――」 「俺と寝てる時くらいのものか?」 「……」 その時、自分が理性も自制も手放していることを、瞬は認識していなかったらしい。 知ってはいただろうが、そうだと意識していなかったらしい。 今 そうと意識して、瞬は小さく微笑した。 「……氷河だけだよ。素の僕を知っているのは。知っていて、生きているのは」 「素のおまえは、あんな 我儘女より はるかに凄艶だぞ」 「え?」 瞬は すっかり忘れていたのだが、氷河は岸田マナミが 瞬を『絶望的に色気が足りない』と評したことを 根に持っていたらしい。 ぷっと吹き出してから、瞬は 切ない味のカクテルを もう一口飲んだ。 そして、思い出す。 お酒を飲めるようになりたいと、氷河のバーに通っていた頃、『これなら飲めるだろう』と言われて勧められたのがカンパリオレンジだった。 『淡い初恋の味がすると言われているカクテルだ』と言って。 淡い初恋から始まって、よくぞ ここまで来たものだと、氷河でなくても思いたくなる。 「彼女は……自分が 美しくなくなると思ったのかな……。自分の望む形とは違う形で生き続けることに 価値があるのかどうかを、彼女は迷っていたのかもしれないね。美しいことに価値を置いて生きてきた人のようだったし……。最後に、氷河と美しい恋をしたいと思ったのかもしれない。氷河に白羽の矢を立てるなんて、見る目のある人だと思うよ」 「俺の都合を考えてくれたら、もっと よかった」 もう“不快”には思っていないくせに。 氷河は、瞬が知る限りで、最も“考え”と“言葉”と“行動”が乖離している人間だった。 『クール』『クール』と言葉では言いながら、彼がクールだった時など、これまで ほとんどない。 「僕は、人を傷付けるのが嫌いな、優しくて善良な人間でいなきゃならない」 岸田マナミは そんな人間は大嘘つきか大馬鹿だと言っていたが、それでも。 氷河は そんな人間を 大嘘つきと思うのか、大馬鹿だと思うのか。 少々 不安になって顔を上げた瞬に、氷河は そのどちらの言葉も投げてこなかった。 それは 瞬の習慣で、人格で、運命で、人生なのだと 受け入れた上で、彼は、 「つらくても、俺が側にいてやる」 と、瞬に言ってくれた。 「俺は、おまえだけのものだ。おまえから離れられない。これは、愛も恋も超越した思いだ。俺は おまえなしでは生きていられない。おまえが俺の命の源だ」 「僕にとっての氷河も そうだよ」 これが 二人の考えで、言葉で、行動で、習慣。人格で、運命で、人生。 淡い初恋の辿り着いた場所。 そして、氷河の瞳の中には、二人の現在と未来があるのだ。 蘭子に 不快な客の話を知らされた時は どうなることかと案じていたが、不快な客は不快な客ではなかった。 そして、彼女には友がいる。 希望を持てる よい夜になったと、瞬は思った。 |