翌朝、ナターシャが起床した頃に蘭子の家に着く時刻を見計らって、氷河と瞬は店を出た。 蘭子は、氷河と瞬のマンションから、かろうじて徒歩圏内と言えるところに、少々 複雑な構造の一軒家を構えている。 出入り口が別になっている部屋が幾つもあるのは、それらの部屋を 彼女が所有している店の従業員に 寮として提供することがあるから。 今 彼女が何人の男(寮は もちろん 男子寮である)の世話をしているのかは知らないが、常に料理の上手い男を一人は置いていると、彼女は言っていた。 「パパ! マーマ!」 事前に到着予定時刻を知らせていたので、ナターシャは すっかり お帰りの準備が整っていた。 氷河と瞬が蘭子の家の玄関に入っていくと、ナターシャは瞬の手に飛びついてきた。 氷河と瞬がいる時に、ナターシャが瞬の方に駆け寄るのは、マーマに抱っこをしてもらうと、パパと同じ高さで パパと向き合って お話ができるから――らしい。 「ナターシャちゃん、おはよう。いい子にしてた?」 「パパ、マーマ、オハヨー! ナターシャ、イイコにシテタヨー」 元気よく朝の挨拶をしてから、ナターシャが 後から来た蘭子の方に顔を向ける。 蘭子が頷くのを確かめてから、ナターシャは“いい子”の報告を開始した。 「蘭子おじちゃ――蘭子お姉ちゃんが、ケーキをご馳走してくれたンダヨ。ナターシャ、ちゃんと お手々を洗って、『いただきます』を言って食べて、食べたあとに『ご馳走さま』を言っタヨ」 「ナターシャちゃんは ほんとにいい子だね。氷河のご自慢だよ」 瞬に そう言われ、ナターシャは 嬉しそうな笑顔になった。 肝心の氷河は 何やら難しい顔で 蘭子と話をしていたが、自分が いい子でいたことを マーマが知っていてくれれば、それは必ずパパの耳に入ることを、ナターシャは ちゃんと知っていた。 その氷河は、ナターシャの耳に入れるわけにはいかないことを、蘭子から告げられていた。 「あの ケバケバ女に、瞬ちゃん以外の人とは寝る気にならないって言ったんですって?」 「もう、耳に入っているんですか」 「あそこに 一人、スパイを潜り込ませといたの。ま、誰の人生にも いろいろあるわよね。ケバケバ女、出入り禁止にするのは やめとくわ。お店に来てくれない方が不安だし、ずっと上客でいてほしいし。氷河ちゃんも我慢してあげて」 蘭子の言う『ずっと』は、おそらく年単位の『ずっと』である。 氷河は、一般人には わからないほど 浅く首肯した。 「ママは優しい」 「瞬ちゃんほどじゃないけど?」 「瞬は別格――別次元だ」 「便利な言葉よね、“別次元”って」 笑って、蘭子が瞬の方を振り返る。 「瞬ちゃん、アタシと一度 どう? 氷河ちゃんに そこまで言わせる瞬ちゃんの魅力がどれほどのものか、お手合わせしてみたいわ」 蘭子は もう 声をひそめるのを止めていたので、蘭子のお誘いは しっかり瞬の耳に届いていたのだが、瞬は 笑顔で聞こえない振りをした。 「ナターシャちゃん、ケーキは美味しかったの?」 「オイシカッタヨー。マンゴーとイチジクのタルトダヨ」 清々しいほど あからさまな無視。つまり、拒否。 蘭子の被雇用者という立場上、氷河は形ばかりの執り成しに入った。 「ママ。瞬に手を出すのは やめておいた方がいい。俺だって命がけだったんだ。危険すぎる」 「冗談よお。瞬ちゃんが 誰より優しくて、誰より危険な人間だってことくらい、アタシにだってわかってるわよ。絶対に敵にまわしちゃいけない人間だってことは」 「蘭子お姉ちゃん、イイコにしてればイインダヨー。マーマが恐いのは 悪いコだけダヨー」 「は」 ナターシャの忠告が的確すぎて、蘭子が瞬時に絶句する。 「ナターシャちゃんって、イイコなだけじゃなく、ものすごくお利巧さんね」 瞬が 即座に辞去の挨拶に及んだのは、このタイミングで帰らないと 氷河が延々と娘自慢を始めてしまうと、それを懸念したからだった。 |