がために






「下の部屋が空いたんだ」
「え」
「俺のマンションの」
「引越しには半端な時期なのにね」
「俺は――」
「氷河は?」
「……いや、それで、ナターシャが――」
「ナターシャちゃんがどうか?」
「……何でもない」


「――っていう、やりとりを、もう3回くらい、氷河としているんだ」
「それが?」
「どういうことかなあ……って」
「……」
瞬は“清らかさ”に定評のある人間だが、それは 罪や汚れを知らないからではない。
つまり、瞬は 無知でも愚鈍でもない。
天然な部分も ないでもないが、勘が悪いわけでもない。
氷河の人となりも知っている――知りすぎるほどに知っている。
ゆえに、瞬が氷河とのやりとりの意味を仲間たちに報告し、意見を求めたのは、その やりとりの意味するところは おおよそ察していて、その推察が正しいことの確証を得たいと望んでのことだったろう。
実際、それは難しい謎かけではなかった。
星矢にも わかるレベルの易しい謎かけだった。

「部屋が空いたから 引っ越してこないかって、おまえを誘ってるんだろ」
「うむ。まさか、おまえに 空き部屋の入居者を紹介しろということではあるまい」
星矢と紫龍の推察は、瞬の それと合致していたらしい。
瞬は頷きながら、首をかしげた。
「やっぱり、そういうことなのかなあ……」
「難しいのか? 引越し」
「そんなことないよ。氷河のマンションは、僕の病院にも近いし」
「だよなー」
そもそも職場が押上なのに、氷河が 光が丘に住んでいることの方がおかしいのだ。
押上への通勤に便利な場所は 他に いくらでもあるのに、氷河はなぜか 瞬の勤務先の近くに居を構えている。

「氷河は夜の仕事だし、おまえが近くにいてくれれば、自分が仕事に行ってる間、ナターシャを見ててもらえるし」
「ナターシャの身体が あんなだから、医者が側にいてくれると、氷河も何かと安心だろう」
「なんつっても、独り身で一人暮らしの男が 突然 幼女を引き取るなんて、今時 よくない憶測を生むだろ。ロリコン疑惑とかさ」
「二人で養育しているのなら、不本意な誤解をされることもあるまい。ナターシャには、細やかな気配りのできる優しい母親的な大人がついていた方がいいだろうし」
「氷河には、子供の躾なんて無理だろ。なにしろ、常識の持ち合わせがないことで 勇名を馳せた男だ。コミュニケーション能力もないし、事務処理能力もない。これまで それでも どうにかなってたのは、男の一人暮らしだったからだよな」
「うむ。氷河一人では 子育ては絶対に無理だ。しかも、女の子など、とてもとても」

氷河が一人でナターシャを養育することの不都合と、瞬がナターシャの側にいることの好都合を並べ立て、瞬が氷河のマンションに引っ越すための理由は出揃ったという顔をして、星矢と紫龍が総括に入る。
「夜の仕事をしていて 常識を欠き、細やかな気配りのできない不愛想な一人暮らしの男が、少々 特殊な事情を抱えている幼女と 二人で暮らすことには問題があるということだ。氷河がナターシャに与えられるものは、極端なことを言えば、愛情だけ。無論、それは何よりも大事なものだが、それだけで子供を育てることは、社会的に無謀な行為だ」
「だから、優しくて、細かいところに気がまわって、常識と社会的事務処理能力のある おまえが氷河のマンションに行くのが いちばんいいんだよ。氷河は、事情を知らない他人の手にナターシャを預けたくないみたいだし――氷河が仕事に出てる間、ナターシャの世話をすることができて、かつ ナターシャに常識と社会性を身につけさせることのできる人間が、氷河とナターシャには必要なんだ。おまえはナターシャに好かれてるし、氷河には いちばん安心できる相手だろ」

紫龍と星矢の総括に、瞬は どんな異論もなかったのである。
さすがにロリコン疑惑にまでは考え及んでいなかったが、氷河の勤務中のナターシャの世話に関しては言うまでもなく、社会的な各種事務処理を 氷河がそつなくこなすのは無理なのではないかということは、瞬も案じていた。
だから、瞬が、氷河との やりとりから導き出される結論に確信を持てずにいたことには、他に理由があったのである。

“確信を持てずにいた”という表現は、正しくないかもしれない。
瞬は引っ掛かっていたのである。
氷河は なぜ はっきり そうと言ってくれないのかと。
氷河は なぜ堂々と(?)仲間を頼ってくれないのかと。
「……ナターシャちゃんのために力を貸してくれって、どうして氷河は はっきり僕に言ってくれないんだろう……。僕、喜んで力を貸すのに。氷河が 今更 僕に遠慮することなんてないのに」

「それはまあ……氷河は、俺たちに何の相談もなくナターシャを引き取ったわけだし」
「氷河はナターシャを引き取ってから、子育ては 自分一人の手に余る難事業だと気付いたんだろうな。考えてから走り出さず、走り出してから考える。ガキの頃から進歩のない男だ」
「おまけに、あいつ、変なところで カッコつけたがるんだよな。人に頼ったり 泣きついたりするのはカッコ悪いことだって思ってるんだ」
「おまえの方から手を差しのべてやった方がいいだろうな。氷河一人だけのことなら、恰好つけでも 痩せ我慢でも、好きなだけやらせておけばいいが、これは氷河一人の問題ではないんだ。氷河の恰好つけにナターシャを巻き込むのは よろしくない」
「そうだよね!」

仲間たちに後押しされて、瞬は ほっと安堵し、そして 力強く頷いた。
遠慮していたのは、実は、氷河より瞬の方だったのだ。
瞬にとって『ナターシャのために』は、霊験あらたかな免罪符のようなものだった。






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