大矢夫人と二人で その場に残された瞬は、娘を失った母親に どんな言葉を掛ければいいのか、その言葉を思いつけず、静かに瞼を伏せた。
大矢夫人は、ナターシャと美幸を全く別の存在と認識しているのか。
あるいは、彼女の心の内には、ほんの少しでも“もしかしたら”という思いがあるのか。
それが わからないと、何を言っても彼女を傷付けることになってしまいそうで、瞬は何を言うこともできなかったのである。
大矢夫人が ナターシャをどういう存在と思っているのか、それがわかったとしても、瞬には 彼女を傷付けない言葉を思いつくことはできなかったろうが。
ショップの建物の中に 氷河と子供たちの姿が消えると、大矢夫人が細く長い溜め息を一つ 洩らす。
そして、彼女は、思いがけないことを瞬に語り始めた。

「私、再婚を考えていたんです。亡くなった夫と設計事務所を共同経営していた人が、夫の死後も ずっと私たち親子のことを気遣ってくれていたんですが、その人が、今度、実家のある広島の方に事務所を移すことになって、一緒に来てくれないかと望まれたんです。彼は、貴幸のパパになりたいと言ってくれました」
「そう……だったんですか」
『再婚を考えていた』と過去形になるのは、再婚しないことにしたからなのか、再婚の決意をして“考える”ことを やめたからなのか。
問い返すわけにもいかず、瞬は大矢夫人の続く言葉を待った。

「彼は いい人です。子供もいて 初婚でもない私には勿体ないほどの人だと思います。でも、夫が死んで、まだ2年しか経っていない。私と貴幸が、こうして今、困窮せずに暮らしていられるのは、夫のおかげです。再婚は――私たちのことを そんなにまで考えていてくれた夫に対する裏切りのようで、決心がつきかねていました」
再び過去形。
今度の過去形が意味するところは、瞬にも わかった。
「さっき……ナターシャちゃんと氷河さんを見た貴幸が、僕もパパに肩車してほしいと言ったんです。それで気付いた。私は、私の体裁や面目や 人にどう思われるかということを気にしすぎていた。私には、もっと他に考えるべきことがあったのに」

大矢夫人は、決意したのだ。
それゆえの過去形。
彼女の決意は、瞬には、彼女と彼女の息子のために 良いことであるように思われた。
タカユキクンが大人しいのは、男親がいないからではなく、決意することができずにいる母親の心に影響されてのことだったのだと、今になって 瞬は気付いた。

「大矢さんが考えるべきことは、貴幸くんと大矢さん自身の幸福でしょう。今の大矢さんには、その他に考えるべきことなんかありません。過去ではなく、未来を見詰めて――」
失われた娘のことを忘れろというのではない。
ナターシャのことを忘れてほしいのでもない。
瞬は、大矢夫人に、彼女と彼女の息子――生きている人間が作り出す未来を考えてほしかった。
彼女がナターシャに縁も ゆかりもない人であったとしても、瞬は同じことを 同じように思っていただろう。

「貴幸を肩車してくれるかどうか、彼に訊いてみます」
「ええ」
もしかしたら、大矢夫人に会ってから初めて、顔を上げて まっすぐに前を見る彼女を見た――ような気がする。
ナターシャが大矢夫人に どんなシンパシーも感じなかったのは、二人が出会った時には既に、大矢夫人は 失った娘と夫に囚われることをやめようとしていたからだったのかもしれない。
そして、新しい人生に踏み出そうとしていたからだったのかもしれない。
彼女は 最初から、失った娘を取り戻そうなどということは考えておらず、二度目の 新しい一歩を踏み出すために ナターシャに会うことを望んだだけだったのかもしれなかった。






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