大人の特権






『氷河 = 恥知らず』という評価は、最初は ごく内輪の者だけが共通して抱いている個々人の見解にすぎなかった。
今では、それは、聖域の人間、少しでもアテナの聖闘士に関わりを持ったことのある人間、及び、直接的にであれ間接的にであれ 氷河という男を知っている すべての人間の間に広く流布している定説である。

事の起こりは、彼がまだ白鳥座の青銅聖闘士だった頃。
あろうことか、彼と同じくアンドロメダ座の青銅聖闘士だった瞬に片惚れた氷河が、
「1回でいいから、やらせてくれ」
と泣きついたことにある(らしい)。
それが、アンドロメダ座の聖闘士と二人きりでいる時ならまだしも、彼の仲間たち――天馬座の聖闘士、龍座の聖闘士、鳳凰座の聖闘士のいるところで、真顔で懇願したというのだから、『氷河 = 恥知らず』という“評価”が ほぼ“事実”として 彼等の中に鎮座することになったのは、至極 当然の成り行きだったろう。

その時の氷河の年齢に関しては、14歳だった、15歳だった、16歳になっていた――と諸説ある。
どの説が真実でも、ミドルティーンだったことは確実。
氷河が泣きついた相手の瞬は、更に1歳年下。
もちろん、同性。
どんなに可愛らしい顔立ちをしていても、男子は男子。
氷河は“地上で最も清らか”の看板を掲げていたミドルティーンの(もしかしたら、ローティーンだったかもしれない)同性に、恥知らずにも『1回でいいから、やらせてくれ』と泣きついたのだ。

その時の瞬の反応については、真っ赤になって逃げ出した、仲間によって加えられた あまりの侮辱にショックを受けて泣き出した、ストリームを省略してストームをかました――と、これまた諸説あるのだが、その場に居合わせた瞬の兄が、氷河の破廉恥振りに 怒髪天を衝き、鳳翼天翔を炸裂させたという落ちは、どの説にも共通している。
当時の黄金聖闘士たちを ことごとく退けた伝説的青銅聖闘士の中で最強と言われていたフェニックス一輝の最大奥義を まともに受けたというのに、その時 氷河は、『瞬と“1回 やる”までは死ぬわけにはいかない』と言って(本当に そう言ったのかどうかは定かではないが)根性で生き延びたというのだから、愛欲の力とは凄まじい――もとい、愛の力は偉大である。

ともあれ、それ以来、
「1回でいいから、やらせてくれ」
「今日こそ、やらせてくれ」
「そろそろ、やる気になったか」
「まだ、その気にならないか」
「本当に1回でいいから」
「人間、いつまで生きていられるか わからないし」
「聖闘士は、明日 死ぬかもしれないんだぞ」
「死ぬ前に1回だけ」
「今度の戦いを生き延びた記念に、1回」
といった調子で、氷河の『1回でいいから、やらせてくれ』は続いた。
いつまでも 続いた。

当然、瞬も そのたび、
「1回だけでも、いやです」
「今日も、その気はありません」
「そろそろ、諦めてください」
「永遠に、その気にはなりません」
「1回でいいなら、0回でもいいでしょう」
「生きている限り、いやです」
「明日 死ぬのだとしても、いやです」
「今度の戦いで生き延びた記念に そんなことをしたら、次の戦いで生き延びることができないような気がするから、いやです」
といった調子で、氷河の『1回でいいから、やらせてくれ』攻撃を退け続けた。
いつまでも 退け続けた。

無論、瞬の兄である一輝も、そのたびに怒髪天を衝き、毎回 律儀に氷河に鳳翼天翔を見舞って、最愛の弟を邪恋の徒から守ることをやめなかったのである。
彼もまた、いつまでも やめなかった。

氷河の『1回でいいから、やらせてくれ』攻撃は時と場所を選ばず、そして、彼が水瓶座の黄金聖闘士になり、瞬が乙女座の黄金聖闘士になってからも続いたので、氷河の破廉恥振りは やがて、仲間内の秘密ではなくなり、聖域中の知るところとなった。
今では、それは、アテナは もちろん、聖域の主だった敵陣営の雑兵ですら知らない者はないほど有名な恒例イベントになっている。

この『今では』は、『今でも』に置き換えることができる。
すなわち、氷河が 寄る辺のない幼い少女をパパとして引き取り、その少女が瞬をマーマを呼び、その少女の養育を氷河一人に任せておくことはできないと言って、瞬が氷河のマンションに引っ越した“今でも”、瞬に対する氷河の『1回でいいから、やらせてくれ』攻撃は続いているのだ。
さすがに それほどの時間が経つと、瞬の撃退のセリフも 様変わりしていたが。
瞬は、最近は、氷河の幼い愛娘を盾にする撃退方法を用いるようになっている。
たとえば、
「そろそろ、その気にはならないか? 1回でいいから」
「ナターシャちゃんの前で、そのセリフを言えたなら、考えないでもないけど」
といった調子で。

もっとも、対する氷河も百戦錬磨のつわもの。
彼は、その程度の、脅しにもなっていない脅しごときに 怯むような男ではない。
「ほんとかっ !? 」
瞳を輝かせて 身を乗り出してくる氷河を、ナターシャという盾だけでは防ぎきれず、瞬は結局 自分の拳をも振るうことになるのが常だった。

「本当なわけないでしょう! 氷河が ナターシャちゃんの前で そんなことを言ったら、僕、どこか遠くに引越します」
「ナターシャの前で『1回でいいから、やらせてくれ』と言っても、ナターシャには意味がわからないと思うが」
「わかる、わからないの問題じゃないの! むしろ、わからない時の方が問題でしょう。ナターシャちゃんに『パパは何をやらせてほしいの?』って訊かれたら、氷河は何て答えるの!」
「それは――“愛ゆえの行為”とか、“大好きな人とすること”とか」
「なら、ナターシャもスルー!」
「なにっ」
「って言われて、ごまかすのに四苦八苦するのが落ちだから、そういう危険なことはしないでいるのが 氷河の身のためだよ」
「……」

丁々発止のやりとりの末、最終的に瞬が勝ちを収めるのは いつものこと。
歳月は人を待たず、光陰 矢の如しというが、それだけは――どれほど長い時間が過ぎても――変わることのない結末と光景だった。






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