「しっかし、青銅聖闘士の頃から十数年、冗談にしても よく続くよな。『こんにちは』の代わりに『1回、やらせてくれ』、『こんばんは』の代わりに『そろそろ、やる気になったか』」
神との戦いで負った傷を癒すため、長く仲間たちとの連絡を絶っていた星矢が、昔と変わらぬ その光景に触れて、長い時間の隔たりを瞬時に忘れることになったのは、もしかしたら氷河の手柄なのかもしれない。
元青銅聖闘士の中で 最も“人の親”たることへの適性を欠き、定職に就くことなど 到底無理と言われていた氷河が、一児のパパになり、あろうことか接客業に従事しているという、想像を絶する現実を目の当たりにした星矢が、時に置き去りにされた浦島太郎の絶望を味わわずに済んだのもまた、(逆説的ではあるが)氷河のおかげ。
十数年前と変わらず、瞬に振られ続けている氷河の姿のおかげ、だったのかもしれない。

想像を絶する事象といえば、死んだはずの山羊座の黄金聖闘士が なぜか蘇っていて、なぜか氷河のバーでバイトをしているという事態も 十分に想像を絶する事象だったのだが、そんなことは、氷河が人の親になっていることに比べれば 驚くほどのことではない。
実際、星矢は驚きもせず――驚くどころか 余裕綽々の物見遊山気分で――彼は今日、復活した黄金聖闘士のバイト風景を見物にやってきたのである。

山中にて、幽人と対酌す。
両人対酌すれば、山花開く。
一杯 一杯 また一杯。

――と、李白を気取るつもりで 紫龍を誘い、氷河のバーにやってきた星矢は、残念ながら、美味い酒の代わりに、山羊座の黄金聖闘士の愚痴ばかりを振舞われることになってしまったのだが。

氷河は、『バーの仕事は掃除に始まり、掃除に終わる』と言って、シュラに 掃除ばかりさせているらしい。
掃除は大雑把。
氷を切ることはできても、切る方向を読み切れない。
フルーツのカッティング技術はあっても、鮮度や糖度を見極められない。
グラスを磨かせると、磨く代わりに グラスを切る。
そんな新米にシェイカーを持たせられるかと、氷河は 先達に対して随分 厳しい指導をしているようだった。

「掃除ごときに音を上げて、バイトを辞めてしまったら、ここを紹介してくれた瞬に顔向けができないから、辞める気はないが」
と シュラは言っていたが、彼の本音は『酒の味見をさせてもらえるので辞められない』というところにあるように、星矢の目には映った。


星矢が紫龍と共に氷河の店を訪ねた、その日。
シュラがカウンターに入ってグラス磨き(の練習)をしていた(させられていた)のは、開店直前の店の視察にやってきた蘭子の目の保養のためらしい。
星矢が『氷河 = 恥知らず』の定説を その場に持ち出したのは、厳しい指導をしている この店のマスターは 恐るるに足りない男だということを シュラに知らせ、彼の早期退職を阻止するため。
そして、その定説を知る前に宇宙の塵となって絶命した彼を励まそうとしてのことだった。
が、その効果は あまりなかったかもしれない。
自分の言いたいこと(愚痴)だけを言い終わったシュラは、やがて“グラスを切らずに磨く”という難しい仕事に熱中し始め、客の存在を忘れてしまったのだ。
この店のマスターは 客の話し相手をするなどという殊勝な心掛けは持ち合わせていない。
開店時刻前に押しかけてきた身内の客が相手となれば、なおさら。
自然、会話は、カウンターの外の者たちだけで進められることになった。


「俺、ずっと、氷河のこと、恥知らずの助平男と思ってたんだけど、十数年間、浮いた噂の一つもなく、瞬に粉を掛け続けてさ。氷河のあれって、もはや純愛の域に達してるんじゃないか? 氷河の奴、今から10年後も20年後も、『1回でいいから、やらせてくれ』って、瞬に泣きつき続けてるような気がするぜ」
「ははははは」
紫龍が、気の抜けた炭酸水のような笑い声を、開店まで まだ少し 間のあるバーの店内に響かせる。
星矢が持ち出した定説ネタに乗ってきたのは、シュラではなく、目の保養のために店に来ていた蘭子の方だった。
蘭子のそれは、“話に乗ってきた”というより、“意味が理解できず、質問の手を上げた”と言った方が正しかったが。

「紫龍ちゃん。星矢ちゃんは、いったい何の話をしてるの」
蘭子が星矢当人ではなく紫龍を指名して尋ねたのは、長く仲間たちと連絡を取っていなかった星矢が 何か誤解をしているのではないかと、それを懸念してのことのようだった。
問われた紫龍ではなく 星矢当人が、蘭子の疑念に答えを返す。
「だから、氷河が瞬に十何年間も振られ続けてるって話だよ」
「氷河ちゃんが瞬ちゃんに振られ続けてる? まさか」
「まさかって、なんで“まさか”なんだよ? 氷河の奴、蘭子ママの前では 瞬に振られ続けてること、隠してんのか?」

「そんなことはないけどぉ。氷河ちゃんは、私がいるところでも、毎回 堂々と瞬ちゃんに お誘いを仕掛けて、断られ続けてるけどぉ」
「なら」
なら、なぜ『まさか』になるのか。
星矢が眉根を寄せると、蘭子もまた 怪訝そうに小首をかしげた。
“小首”と一緒に、彼女の見事な三角筋と上腕二頭筋が笑うように揺れる。

「でも、氷河ちゃんと瞬ちゃんって、子供の頃からの付き合いなんでしょ」
「ああ」
「氷河ちゃんは瞬ちゃんが好きで、瞬ちゃんも氷河ちゃんを好きよね」
「嫌いじゃあ ないだろうけど」
「アタシが見ても、二人が親密なことは わかるし、信頼し合ってるのも わかるし」
「そりゃあ、氷河は瞬に命を救われたこともあるし、瞬だって氷河に何度もピンチを助けられてるからな」
「それで、今は、ナターシャちゃんを引き取って、ナターシャちゃんのパパとマーマ。瞬ちゃんは、氷河ちゃんのマンションに引越しまでして、要するに同じ家に住んでるようなものでしょ」
「まあ、いつのまにか そういうことになってたみたいだけど」
「それで 何もないなんてこと、あるはずないじゃない」
「“それで 何にもない”なんてことがあるのが、瞬の清らかさのゆえんっていうか、何ていうか」

瞬の清らかさは筋金入り。
神による保証書付き、天上界地上界公認、A級&無期限ライセンス発行済み。
仲間の育児に協力するために同じマンションに引越したことが きっかけで、なし崩し的に ナターシャのパパと わりない仲になる――などということほど、瞬という人間に 似つかわしくない事態もない。
――と、星矢は思っていたのだが、蘭子の考えは違うらしい。
彼女は、
「ナニかしたって、清らかでなくなるわけじゃないし」
と、豪快に あっさり言ってのけてくれた。

「そりゃ、そうだけど、『1回でいいから、やらせてくれ』って氷河が瞬に言い続けてるのは事実だし、氷河が そう言い続けてるのは、1回も やらせてもらえてないからだろ」
「でも、そんなこと ありえないでしょ。常識で考えて」
「氷河を常識の物差しで計るのは無茶ってもんだぜ」
「瞬ちゃんは、常識の物差しで計れる子でしょ」

『瞬を常識の物差しで計るなんて、それこそ無謀の極み』と言いかけた言葉を 声にする直前で、星矢は思いとどまった。
蘭子は おそらく、まだ瞬の真実の姿を知らない
人間界の常識から最も逸脱したバルゴの瞬の戦い方を、蘭子は知らないのだ。
そして、それは(それでも一応 一般人に分類される)蘭子には、永遠に知らせるわけにはいかないことである。
バルゴの瞬の戦い方と実力を知らない人間の目で見れば、瞬は良識を備え 協調性にも恵まれた、常識的調和的人間以外の何物でもないのだ。

瞬が、(基本的に)低姿勢、穏和で人当たりがよく、誰にでも優しく親切な人間であることは、星矢も否定できず、そんな瞬を“常識の物差しで計れない人間”に分類してしまうと、『いったい 誰をなら常識の物差しで計ることができるのか』という問題が生じることになる。
だから 星矢は、ここは黙るしかなかったのである。
そんな星矢の前で、蘭子が更に言葉を継ぐ。

「本当に その気がないなら、瞬ちゃんはきっぱり お断りするわよ。それが氷河ちゃんのためだもの。十何年間も のらりくらりと言を左右にして、氷河ちゃんに気を持たせ続けるなんて、そんな 氷河ちゃんの心を弄ぶようなこと、瞬ちゃんは絶対にしない。百万円賭けてもいいワ」
「んー……。瞬が故意に人を焦らしたりするようなことをする奴じゃないって見解には、俺も賛同するけどさ」
「でしょ? あの二人の間に何もないなんて、あり得ない。何もなくて、あの色気って不自然よ」
「蘭子ママの言い分もわかるけど、でも、それは事実だから。なあ、紫龍」

蘭子の言い分が どれほど筋が通っていても、事実に合致しない推察は誤りである。
紫龍なら、蘭子の言い分を論理的に覆すことができるだろうと、それを期待して、星矢は仲間の方を振り返った。
紫龍が、星矢の期待に 沈黙の答えを返してくる。
「え?」
その沈黙が 蘭子の推察を論破できる理論を思いつかないがゆえの沈黙でなく、蘭子の推察に同意するがゆえの沈黙であることを理解するのに、星矢は優に1分の時間を要した。

光速拳を見切り、よけることのできる人間(聖闘士)は、当然のことながら、光速の反射神経と判断力を備えている。
そういう人間(聖闘士)にとって、1分という時間は、一般人の1週間にも匹敵する長い時間と言っていい。
それほどに、紫龍の沈黙は、星矢にとって想定外の、それこそ“あり得ない”沈黙だったのだ。
紫龍は蘭子の言い分(推察)に賛同している――反論する気がない――のだ。
氷河と瞬の間には何かがある――と、紫龍は その沈黙で告げていた。






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