「なななななななにぃーっ !? 」 陸にあがった蟹のように、戦いの前の興奮を抑え切れずにいる馬のように、星矢が泡を吹いて卒倒しなかったのは、ほとんど奇跡だったかもしれない。 星矢の起こした奇跡に気付かなかったのか、気付いていても毎度のことなので驚く気にもなれなかったのか。 カウンター席の客たちの話が聞こえていなかったのか、聞こえていたが あえて無視したのか。 氷河は 無言で酒棚のボトルのチェックを続けている。 氷河が何も言わないので、紫龍は 彼の推察を語る気になったようだった。 氷河が何らかの横槍を入れてきたら、紫龍は沈黙したままでいたのだろう。 十数年間、公にされることのなかった事実。 紫龍自身、長いこと、自分の推察が正鵠を射たものなのかどうかを確かめずにいた。 つまり、それは、どうあっても真偽を確かめなければならないようなことではなかったのだ。 少なくとも、紫龍にとっては。 「俺も、長い間、騙されていたんだが、氷河のあれは、一輝向けのパフォーマンスなのではないかと思う。『1回でいいから、やらせてくれ』と氷河が言い続けている限り、二人は そういう事態に至っていないと、一輝に思わせておくことができる」 「一輝ちゃんって、荒野の素浪人風の いい男って噂の、瞬ちゃんのお兄さん !? 」 蘭子は爛々と瞳を輝かせて 身を乗り出してきたが、星矢は その件に関しては、今は何を言う気にもなれなかった。 そもそも 蘭子が一輝に食指を動かした場合、危険なのは 蘭子の方なのか、一輝の方なのか。 そこからして判断がつかない――蘭子に対して、どんな忠告をすべきなのかも わからない――のだ。 星矢としても、動きようがない。 そんなことより――今の星矢にとっての大問題は――何よりも重要で重大な問題は、氷河と瞬の間に“1回”があったのか否か、だったのだ。 星矢の大問題の答えは、その時には もう、解けない謎でも隠された謎でもなくなっていたが。 紫龍の声が聞こえていないはずはないのに、氷河は沈黙を守っている。 その沈黙が、“1回”の事実を物語っていた。 「そんな……。いったい、いつから――」 「今にして思えば、氷河が初めて瞬に『1回でいいから、やらせてくれ』と言った時にはもう、二人は そういう仲になっていたんだろう。氷河の『1回でいいから、やらせてくれ』は、その“1回”を一輝に知られないようにするための小細工だったのではないか」 「氷河が初めて瞬に『1回、やらせてくれ』って言ったのは――あの時、氷河は確か、えーと、14か15だったろ。てことは、瞬は 13か14」 「そういうことだ」 「そういうことだ……って……」 ここは腹を立てる場面だろうか。 それとも、“現実”に打ちのめされて 脱力する場面なのか。 「ま、おませサン」 蘭子の無邪気な(?)コメントが、いきり立った星矢の肩から 根こそぎ 力を奪い取った。 「十何年間も騙されてたのか、俺は……」 仲間たちと連絡を絶っていた間に 二人の仲が進展していたというのなら、いっそ『宿願が叶ってよかったな』と氷河の大願成就を祝することもできる。 しかし、共に青銅聖闘士として戦っていた頃から 二人が“そう”だったとなると、それはどうしても“騙されていた”“秘密を持たれていた”という思いの方が 強くなる。 その欺瞞、秘匿が、氷河一人の手によるものではなく、瞬も片棒を担いでいた――という事実が、星矢を打ちのめした。 カウンターに突っ伏した星矢の頭の上に、突然、 「できだぞ!」 というシュラの声が降ってくる。 「見ろ! ついにグラスを切らずに1個 磨き終わったぞ!」 シュラは、氷河の店にバイト面接に来た時、自身を『勤勉で真面目』と言って売り込んだらしい。 それは事実だったのだろう。 彼は、勤勉かつ真面目かつ一心不乱に、氷河に命じられた仕事に勤しんでいたのだ。 “勤勉で真面目”は“大局的視点を持ち、総合的状況判断力を備えている”ということではない。 無論、“空気を読む力がある”ということでもない。 「何かあったのか?」 どんな時なら バーにやってきた客がカウンターテーブルと熱い口付けを交わすことになるのか、そのストーリーを思い描けなかったらしいシュラが、不思議そうな目で だれて腑抜けている星矢を見詰める。 フォローに入るのは、その場に瞬がいない時は、当然 紫龍の役目だった。 「瞬が いつのまにか大人になっていたことが、星矢にはショックだったんだ。星矢は、瞬の清らかさを信じる気持ちとか、瞬には いつまでも清廉潔白でいてほしいと願う気持ちが、昔から ことのほか強くてな」 「? 瞬は清らかだぞ。しかも、面倒見がよくて優しい」 「ああ。それは その通りなんだが」 それは その通りなのだが、星矢の傷心も わかる。 どうにも仕様がなく、どうにも仕様がない人間が どうにも仕様のない時に そうするように、紫龍は口許に苦笑いを浮かべることをした。 |