「パパ、忘れ物ダヨー!」 「ナターシャちゃん。お店が開くまでには まだ時間があるから、そんなに慌てなくても大丈夫だよ」 このタイミングで、瞬が この場に姿を現わすのは、運命の神の気が利いているからなのか、あるいは 意地が悪いからなのか。 右手に氷河のカチューシャを握りしめて店内に飛び込んできたナターシャのあとから、星矢が いつまでも清廉潔白でいてほしいと願う仲間が登場する。 開店前の店内に、店の従業員だけでなく、星矢と紫龍、蘭子までが揃っているのを認めて、瞬は少し驚いたように 目をみはった。 「ナターシャちゃんが、氷河の忘れ物を届けたいというものだから……。どうかしたんですか? 皆さん、打ち揃って……」 瞬が敬語になったのは、その場に蘭子とシュラがいたからで、星矢と紫龍が客だからではなかっただろう。 シュラと違って空気を読む能力に恵まれている瞬は、すぐに、店の中に漂う微妙な空気の淀みを感知したようだった。 「星矢? 何かあったの?」 名指しで星矢に尋ねるのも、瞬が 空気の停滞原因を的確に察知したからなのか。 「なんだか、しょんぼりしてるみたい」 子供の頃と変わらず、澄んで大きな瞬の瞳が、心配そうに星矢を見詰めてくる。 その瞳に出会った時、星矢は 覚悟を決めたのである。 蘭子の常識的決めつけは、事実に即したものであるのか否か。 紫龍の推察は、正鵠を射たものなのか、外したものなのか。 氷河が 紫龍の推察を否定しないことは肯定なのか、肯定しないことが否定なのか。 そんなことは、どうでもいい。 蘭子が言っていた通り、ナニかをしたからといって瞬が清らかでなくなるわけではない。 瞬が十数年の長きに渡って 仲間たちに秘密を持っていたのだとしても、その秘匿行為が悪意や害意に端を発したものであるはずがないのだ。 星矢は、ともかく、真実を確かめたかった。 彼は、真実を知る覚悟を決めたのである。 瞬がナターシャを伴って、ここに来てくれたのは幸いだった――と、星矢は思った。 瞬当人には訊きにくい。 単刀直入に、瞬当人を問い質したところで、瞬が事実を話すとは限らない。 清らかな人間は嘘をつかない――とは限らないのだ。 瞬は、自己保身のために嘘をつくようなことは決してしないが、仲間のため、アテナのため、地上の平和を守るため、誰かの心を傷付けないためになら、嘘をつくこともある。 瞬は、嘘をつけない幼い子供ではないのだ。 そういう意味でなら、幼い子供の頃から、瞬は“子供”ではなかった。 その点、ナターシャは、氷河に引き取られる以前はさておき、今は幸せな“子供”である。 幸せな子供は嘘をつかない。 星矢は 搦め手から――カウンターチェアに よじ登り、パパに忘れ物を届けるという任務を無事に終えて満足至極の体でいるナターシャに 探りを入れることにした。 「ナターシャ。氷河は いつもこの調子で、忘れ物をしてるのか?」 「いつもじゃないヨ。時々ダヨ。ナターシャとマーマが可愛いから、他のことはどうでもよくなって、パパは つい うっかり忘れ物をしちゃうんダッテ。だから、ナターシャ、マーマと一緒に届けてあげるの」 「そうか。ナターシャは偉いな。でも、そんなふうに うっかり忘れ物ばっかりしてたら、氷河は いつも瞬に叱られてるんじゃないか? 氷河と瞬は 毎日 喧嘩ばかりしてるんだろ?」 「パパとマーマは仲良しさんダヨー」 「氷河と瞬が仲良しサンだと、どうして わかるんだ?」 「エ !? 」 それは、ナターシャには思いがけない――本当に思いがけない質問だったらしい。 そして ナターシャは、自分が なぜ パパとマーマを仲良しさんだと思っていたのかが わかっていなかったようだった。 大きく丸い瞳を、いよいよ大きく丸くして、ナターシャが 考えを巡らせ始める。 考えが まとまっていないのに、確信を持てていない様子で、それでも ナターシャが、 「パパとマーマは喧嘩したことないし、マーマは いつも にこにこしてるカラ……」 と星矢に答えてきたのは、1分1秒でも早く、星矢(とナターシャ自身の)疑念を晴らしたいと願ってのことだったろう。 星矢が、大人げなく、更にナターシャを追い詰める。 「でも、氷河は いつも むすっとしてるだろ? 瞬が好きじゃないから、いつも むすっとしてるのかもしれないだろ?」 氷河が いつも仏頂面でいるのは、感情を表に出さないことがクールな振舞いだと、彼が 思い込んでいるからである。 少なくとも、十代の頃の氷河は そうだった。 大人になった今でも 氷河が そう思っているのかどうかは定かではないが、十代の頃から続けてきた そのポーズを急にやめるわけにもいかず、氷河の標準仕様は仏頂面。 氷河の仏頂面や無表情は、対峙する相手への好悪の感情とは 全く関係がないのである。 それは、星矢も承知しているはず。 にもかかわらず、ナターシャに そんなことを言い募る星矢に、瞬は眉をひそめた。 「星矢、急に何を言い出したの」 子供の胸に 両親の仲が悪い(かもしれない)という疑念を抱かせることが、子供に良い影響を与えるはずがない。 瞬は、星矢とナターシャの問答をやめさせようとしたのである。 そんな瞬を 押し留めたのは紫龍だった。 「しばらく、星矢のしたいようにさせておいてやれ。星矢は今、親友と信じていた人間に重大な秘密を持たれていたことを知って、ブロークンハート状態なんだ」 「親友と信じていた人――って……」 星矢が親友と信じている人間――というのは、普通に考えれば、十二宮戦やハーデスとの聖戦を 彼と共に戦った仲間たちのことだろう。 すなわち、(元)龍座の聖闘士、(元)白鳥座の聖闘士、(元)鳳凰座の聖闘士、そして (元)アンドロメダ座の聖闘士の四人。 だが 瞬には、自分も含めて星矢の仲間たちが、星矢に重大な秘密を持つことが――星矢の心を傷付けるような秘密を持つことが――あるとは思えなかったのである。 星矢の心を傷付けた重大な秘密に、瞬は 全く心当たりがなかった。 「デモデモ、パパはいつも マーマのこと、ナターシャとおんなじくらい可愛いって言ってるヨ。嫌いだったら、そんなこと 言わないヨネ?」 「どうかなあ……。氷河は、ナターシャを抱っこするみたいに、瞬を抱っこしたりするか? そんなの、見たことあるか?」 「見たことないケド、パパとマーマは仲良しさんダヨ!」 「氷河が瞬を抱っこしてるところを、ナターシャは見たことがないのか !? 」 星矢が確かめたいのは、氷河と瞬が“行き過ぎた仲良しさん” なのかどうかということ。 無論、星矢にとって好ましいのは、氷河と瞬が“行き過ぎた仲良しさん”ではないこと、である。 ナターシャの力説が 星矢の声を弾ませたのは、それが、蘭子の決めつけが真実とは異なり、紫龍の推察が的を外している可能性を示唆するものだったから――だった。 一緒に暮らしているナターシャに気取られずに、氷河と瞬が そういう行為に及ぶのは至難のわざだろう――と、星矢は思ったのである。 ごく普通の注意深いオトナなら ともかく、氷河は、細かいことに まるで気がまわらず、不注意を絵に描いたような男である。 人の目を気にすることをしない男――むしろ、できない男――でもある。 そんな氷河が 同じ家に住んでいる人間(ナターシャ)に気付かれずに、瞬と“1回(以上)やる”などという器用なことができるものだろうか。 『できるわけがない』というのが、星矢が辿り着いた答えだった。 ならば、蘭子の決めつけは 勝手な決めつけにすぎず、紫龍の推察は的を外していたに違いない。 そう結論づけて、星矢は浮上したのである。 氷河と瞬が“行き過ぎた仲良しさん”でないのなら、二人が 仲良しさん(普通の仲良しさん)であることは、星矢の望むところだった。 ナターシャのためにも、二人には 仲良しさん(普通の仲良しさん)であってほしい。 そう考えて、星矢は すぐさま ナターシャの瞳の中に宿った不安を消去する作業に取りかかったのである。 「ま、大人は、仲良しさん同士でも抱っこなんかできないもんな。抱っこしなくても、仲良しさんはいるよな」 「ソウダヨ。抱っこしなくても、タカイタカイしなくても、仲良しさんはいるヨ!」 「そうそう。瞬はナターシャより大きいから、抱っこもタカイタカイもしにくいだけで、氷河と瞬は(普通の)仲良しさんなのに決まってるよなあ」 「ソウに決まっテルヨ!」 星矢の最終結論に、ナターシャは満面の笑顔。 ナターシャの笑顔に 瞬は安堵し、氷河は相変わらず 無感動無関心を装った無表情。 シュラは2つ目のグラスを手に取り、紫龍と蘭子は 暫時 何か言いたげな顔になったが、結局 沈黙を守った。 紫龍と蘭子が、そこで彼等の思うところを口にしなかったのは、二人が 正しく大人だったからだったろう。 彼等は、真実の探求より、ナターシャの笑顔と 星矢の心の安寧の方を選んだのだ。 真実や 自分の考えに固執して せっかくの幸福や平穏を失うのは、無邪気で正直な子供にだけ許された特権なのである。 「氷河と瞬は 大人だから、恐い夢を見るだの、暗いのが恐いだの、そんな 情けない理由で、一人で眠れないなんてことを言い出したりもしないよな?」 「うん。パパとマーマは強いんダヨ。一人でも眠れるヨ」 「だよなー」 「ソーダヨー」 無邪気で正直なナターシャの言は、大人で優しい瞬の言葉より 信憑性がある。 星矢はナターシャと一緒に、ナターシャと同じくらい明るい笑顔になった。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の間に 嘘や隠し事がなかったことが、正直で信頼に足るナターシャの証言によって保証されたのである。 星矢が、屈託のない子供のように明るい笑顔になるのは 当然のことだったろう。 星矢は、そのまま幸せな人間でいられたはずだった。 「ナターシャちゃん。氷河の忘れ物は無事に届けられたし、おうちに帰ろうか。そろそろ お客様たちが来る時間だから」 瞬に帰宅を促されたナターシャが、 「ハーイ」 と 良い子の お返事をして、星矢たちに『ばいばい』を言う代わりに、 「あ、デモ、パパがお仕事から帰ってくるのは 夜遅いから、パパは いつも ナターシャを起こさないように、マーマのベッドで おねむしてるヨー」 という、信頼性の高い情報を提供してこなかったなら。 「パパ、お仕事、頑張ってネー!」 屈託のない子供のように明るかった星矢の笑顔が、オーロラエクスキューションの数百倍の凍気で凍りついたことに気付くことなく、ナターシャは瞬と手を繋いで パパの職場を出ていった。 その時、『もしかしたら次代の水瓶座の黄金聖闘士はナターシャなのかもしれない』と、現天秤座の黄金聖闘士は思ったのである。 大人である彼は、無論、そんな推察を星矢の前で 言葉にすることはしなかった。 |