「ねえ、氷河ちゃん。氷河ちゃんは正義の味方よね?」
開店準備中の店に ふらりと(どすんと)やってきた蘭子に、まるで念押しするように尋ねられた氷河は、彼の雇い主の問い掛けに 否とも応とも答えなかった。
正義の味方は、自分の正体を誰にも知らせないものである。
正義の味方という仕事は、戦う術を持たない非力な一般市民(蘭子を“戦う術を持たない非力な一般市民”に含んでいいのかどうかという問題は さておいて)に喧伝して行なうようなものではないのだ。
氷河の“ノーコメント”を勝手に肯定と決めつけて、蘭子が正義の味方に“仕事”の話を始める。

「ろくでなしのホストに入れ上げて、そのホストのいる店に通い詰めたあげく、300万ほどの借金を作っちゃった女の子がいてね。その子の目を覚ましてやってほしいんだけど」
それは蘭子の所有する店の雇われマスターへの業務命令なのか、正義の味方への救援要請なのか。
どちらにしても筋違いだと、氷河は思った。
が、蘭子は、氷河の仏頂面を無視して、彼女の筋違いな話を続ける。

「その子、サラ金からの取り立ての電話が 職場にもかかってくるようになって、お勤めもクビになっちゃったのね。で、それまで暮らしてたマンションから安アパートに引越したんだけど、そこも すぐに取り立て屋に見付かっちゃって。そんなことになっても、ろくでなしホストを思い切れず、コンビニのバイト代を ろくでなしホストに貢ぎ続けてるそうなのよ」
「……」
完全無欠の馬鹿女。
言葉にはせず、氷河は 話題の“女の子”を そう命名した。
正義の味方だからといって、戦う術を持たない非力な一般市民を全肯定する義理はない。

「自分の人生なんだから、好きにすればいい。傍から他人が何を言ったところで、当人が 目を覚まそうとしなければ、人の目は覚めないものだ」
蘭子が なぜ そんな馬鹿女のことを気に掛けるのか。
氷河は、むしろ その事情の方が気になった。
その事情を、どうしても知りたいとまでは思わなかったので、あえて尋ねることもしなかったが。
氷河が尋ねなかったことに、蘭子が勝手に答えを押しつけてくる。

「私だって そう思うけどぉ。夕べ、屋台のラーメン屋で 泣きながらラーメン食べてる、その子のお父さんと知り合っちゃったのよ。娘の借金のことを知って、田舎から出てきたらしいんだけど、その お父さんが、娘を 真っ当な道に戻してやりたいって言って泣くわけ。そんな大それたことは望まない。娘には ただ、普通の幸せを手に入れてほしいだけなのに……って。氷河ちゃん、どうにかしてあげて」
“どうにか”というのは、どういうことなのか。
そして、その“どうにか”を実現することは 正義の味方の仕事なのか。
そもそも“普通の幸せ”とは何なのか。
氷河は、そこからして わからなかったのである。

幸せの形など、人それぞれ。
人間の価値観と同じ数だけ――つまりは、人間と同じ数だけ、それは存在するものだろう。
ろくでなしホストのために 社会的に破滅することが、その馬鹿娘の幸せなのかもしれない。
だとしたら、そこに正義の味方が出る幕はないだろう。
そう思うから、氷河は蘭子に尋ねたのである。
「普通の幸せというのは何です」
と。
蘭子は、数秒間 考え込む素振りを見せてから、彼女が思い描く“普通の幸せ”の姿を、氷河に語ってくれた。

「普通の幸せって、そりゃあ……そうねぇ。美人で賢いマーマと、可愛らしい娘。奥さんと娘に首ったけのパパ。娘はパパを世界一カッコいいと信じてて、マーマを世界一 優しくて綺麗だと思っている。マーマは、一本 抜けてるパパを完璧にコントロールし、娘の美質を見誤ることなく導き育ててる。パパはマーマの尻に敷かれ、娘のためなら たとえ火の中水の中。そういう家庭の中にいることじゃないかしら」
それは いったい どの辺りが“普通”なのか。
蘭子は 本気で それを“普通”だと思っているのか。
「ウチを普通というのは……」
皮肉でも嫌味でもなく 素直に虚心に、それは絶対に“普通”ではないだろうと、氷河は思う。

パパとマーマはアテナの聖闘士。しかも、マーマは男子。娘は、両親と血が繋がっておらず、その命は人工的に作られた命。
“普通”を“社会が平均かつ正当と認める状態”と定義するなら、氷河が営んでいる家庭は、その定義から外れきっていた。
蘭子は 氷河の家庭の事情を すべて知っているわけではないが――氷河は知らせていなかったが――ある日 突然 現れた娘、その娘が『マーマ』と呼んでいる人間が男子であることは、彼女も知っている。
蘭子は、彼女の店の雇われマスターの家庭が“普通”でないことだけは、知っているはずだった。
が、蘭子は、氷河の家庭の普通でない事情を知った上で、そんなことを言っていたらしい。

「普通じゃないにしても――そうね。たしかに氷河ちゃんちは普通とは言えないわね。氷河ちゃんちは むしろ、人類の理想の家庭の具現よ」
「……」
そういう見方もあるのかと、皮肉でも嫌味でもなく 素直に虚心に、氷河は思った。
言われてみれば、その通り――ではあるのだ。
氷河の家庭、氷河の家族は、信頼と愛情だけで結ばれた、不自然なほど理想的な家庭にして家族だった。

「その子、借金の連帯保証人の欄に、勝手に父親の名前と住所を書いたらしいわ。返済が滞って、田舎の父親の元に連絡が行って、それで 慌てて東京に来たそうなの。娘のアパートの部屋にいると、娘が嫌がって帰ってこないから、ユースホステルに泊まってるとか。娘がこさえた借金は、先祖代々 受け継いできた田舎の田んぼを売って 何とかしたいって言ってたけど、それだけじゃ、根本的な解決にはならないでしょ。娘は きっとまた同じことを繰り返す。娘の目を覚まさせなきゃ、根本的解決にはならないわけ」
だから、蘭子は、アテナの聖闘士に目覚まし時計になれと言うのか。
蘭子は、正気で そんなことを言っているのか。
氷河は蘭子の正気を疑ったのだが、蘭子の正気はともかく、彼女は完全に本気のようだった。

「そのお父さんが――秩父さんって言うんだけど、彼が また、見るからに 田舎から出てきた純朴で人の好い中年親父なのよ。なんかもう、その佇まいを見てるだけで 泣けてきて――だから、氷河ちゃん、力を貸して」
「力を貸してと言われても……。ママには悪いが、俺には、瞬とナターシャと過ごす時間を削ってまで、馬鹿娘の更生に力を貸す義理はない。先祖代々 受け継いできた田んぼを売って、馬鹿娘の作った借金を払う? 馬鹿娘が嫌がるから、ユースホステルに泊まっている? 娘を甘やかすのも いい加減にした方がいい。そんなだから、娘が ろくでもない男に引っ掛かるんだ」
「そんな冷たいこと言わないであげて。確かに 氷河ちゃんの言うことは正論。彼は馬鹿な父親よ。でもね、ナターシャちゃんが 同じように ろくでなしの男に引っ掛かったら、氷河ちゃんだって、同じようなことするでしょう?」

「俺が……?」
そんな馬鹿親父と一緒にされたくない――と言うように、蘭子の言葉を 氷河が鼻で笑う。
そして、彼は唇の端に 余裕の笑みを浮かべた。
「ナターシャは、そんな馬鹿な娘には育たない。あの瞬が育てているんだぞ。俺は大船に乗った気分で、思う存分ナターシャを甘やかしていていられる」
「それって一種の責任放棄じゃない?」
蘭子が、批判めいたことを、非難めいた口調で言っていたが、当然のごとくに 氷河は 取り合わなかった。

「瞬なら、ナターシャをノーベル賞を受賞するような優秀な科学者にでも、この国の総理大臣にでも、マザーテレサのような聖女にでも、世界一 幸せな花嫁にでも してくれるだろう。瞬は、ナターシャの夢の実現のために、ナターシャに間違いのない道を示し、導いてくれる。俺にしてくれたように。瞬は いつも、俺に 俺が進むべき道を示してくれた。死よりも生、諦めより希望。――俺は瞬を信じている」
それは“責任放棄”ではなく、“信任”なのだ。
しかし、蘭子は 氷河の信任に疑念の一石を投じてきた。
「それはどうかしら。瞬ちゃんは――瞬ちゃんは確かに とってもお利巧さんだし、子供の養育者としての資質と能力にも恵まれていると思うわよ。けどね、瞬ちゃんは氷河ちゃんを選ぶような うっかりさん。完璧とは言えないわ」
「……」

氷河が 蘭子の投じた一石を無視できなかったのは、彼が瞬を信じ切れなかったからではなく、氷河が 自分という男を よく知っていたからだった。
返す言葉に詰まった氷河に、蘭子が押せ押せで迫ってくる。
体格のよさもあって、その圧迫感は アテナの聖闘士を たじろがせるほどだった。

「とにかく、アタシは、一生懸命 娘を育てて、本当は手許に置きたいのに、東京に行きたいっていう娘の願いを叶えてやって、いつかは いい人を見付けて幸せな家庭を築いてほしいって、素朴に娘の幸せを願っていた、人の好い父親が あんなふうにしおれているのを 放っておけないのよ! 氷河ちゃんだって、ナターシャちゃんの父親なんだから、秩父さんの気持ちは わかるでしょう!」
「だからといって……俺に何ができるというんだ」
「何かはできるわよ。まずは、現況把握から」
蘭子が いつになく強引なのは――もとい、いつも通りに強引なのは――この件に氷河を巻き込む計画が 既に始動していたからだったらしい。
今夜 これから この店に、噂の ろくでなしホストと 馬鹿親父が来ることになっている――と、蘭子は 氷河の前で 見事な後出しじゃんけんを披露してくれた。

「まずは諸悪の根源を排除するのが肝要でしょ。娘から手を引くように、相手の男を説得して、これ以上 秩父さんの娘さんが借金を増やさないようにしないと、いたちごっこが続くだけ」
その説得の場を、今夜 この店に(勝手に)セッティングしたと、蘭子は氷河に事後承諾を求めて――もとい、事後報告してきたのだ。
「万一の時は、お父さんの味方をしてやってね。ホストの方は ろくでなしに決まってるから、説得に応じないようだったら、少し痛い目に会わせてやってもいいわよ」
「……」
これが、元教師、元警察官の言うことだろうか。
氷河が それでも蘭子の言に逆らえないのは、彼女が 彼の雇用主だからでなく、結局のところ、氷河も娘を持つ父親の一人だったから――だった。






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