約束の時刻の30分前に 氷河の店にやってきた馬鹿親父――秩父氏は、氷河が想像していた以上に 素朴で人の好さそうな中年男だった。 バーに入るのが初めてらしく、店のドアを開けたは いいが、その後 どうすればいいのかが わからない様子で、その場に突っ立っている。 氷河は、この店を任されるようになってから初めて、客を席に案内するという仕事を(言葉と視線で示しただけだったが)実行したのである。 そんな秩父氏に対して、約束の時刻に20分遅れてやってきたホストの方は、氷河が想像していた以上に――絵に描いたような ちゃら男だった。 自分の倍以上 年上の秩父氏に 遅刻の謝罪もせず、態度も言葉使いも ぞんざいの極み。 店の最奥のテーブル席で、今日の対談の相手を立って出迎えた50絡みの秩父氏(当然、目上)に、 「俺、これでも超売れっ子で、超忙しいんだよ。この店、もちろん、そっち持ちだよね?」 である。 今夜の請求書は蘭子に回すことになっていたが、氷河は その事実を ちゃらちゃらホストに伝える気にはなれなかった。 そんなことを知らされたら、この男は、遠慮せずに タダ酒をあおるに決まっている。 それにしても、見るからに軽い。 態度も頭も性格も、ヘリウムガスで膨らませた風船より 軽そうな男である。 氷河から見れば、顔も十人並み。 品性の下劣が、ありありと その表情ににじみ出ている。 服の趣味も劣悪。 高価な時計やアクセサリーを身につけることが悪いとは言わないが、TPОをわきまえていないと、それらは身につけている人間の“下品”を増幅するだけである。 そもそも氷河は、指輪を複数する男が嫌いだった。 その世紀の風船ホストに対峙する父親は、これまた見事なまでに 垢抜けない田舎親父。 20年前に作った一帳羅をタンスの奥から引っ張り出してきたような、ずんぐりむっくりの中年男である。 まさに、レガシーとトレンドの対決。 戦況は、娘を人質に取られている秩父氏の方が、初手から敗色濃厚だった。 「あんたの娘なんて、俺はどうでもいいんだけど、あんたの娘が俺に首ったけで、俺に やたらとプレゼントを押しつけてくるんだ。でも、それって、俺のせいじゃないと思うんだよ?」 「しかし、娘は、あなたのために 多額の借金を抱えて――」 田舎に職がなかったため 上京して会社勤めを始めたはいいが、都会の空気が純朴な娘には合わなかったのだろう。 大勢の他人の中で気後れし、友人もできず、田舎から出てきた娘は孤独感と劣等感を募らせていった。 一人ぽっちの自分に自信を持つことができないから、ちやほやしてくれる男に会うと、それが商売のための持ち上げとわかっていても、秩父氏の娘は すがらずにはいられなかったのか。 自己承認ができず、承認欲求の すべてを他者承認で賄うしかできなかった人間の悲惨。 秩父氏の娘の不運は、彼女が出会った“他者”が見事なまでの下種だったことにある。 「借金なんか、キャバクラにでも勤めさせて、稼がせればいいだろう。そういう女が何人もいるぜ。水商売で稼いで、その金で俺の店に来る馬鹿女が」 「うちの娘に、そんなことは――」 『させられない』と言おうとしたのか、『できない』と言おうとしたのか。 秩父氏の娘を知らないので、氷河はどちらとも判断しかねたが、秩父氏が言葉を途切らせたのは、彼の娘が そんなことも『やりかねない』と思ったからのようだった。 「あんたの娘、一回 寝てやったら、すっかり自分は特別だと思い込んだらしくてさあ。何でまた そんなふうに思い込めたんだか、不思議でならないぜ。寝ても、外見と同じように退屈な女だったのに」 風船ホストが 秩父氏の前で 下品な笑い声を上げ、風船ホストの嘲笑のせいで、秩父氏の頬は蒼白。 娘の父親として、そんな話を聞かされるのは耐え難いことだろう。 質朴な父親は、肩も唇も ぶるぶると震えていた。 「ともかく、あんたの馬鹿娘の借金は、あんたの馬鹿娘の問題で、俺には関係ない。わざわざ親父が出てきて、別れてくれなんて言わなくても、あんたの娘が店に来て 俺を指名するのをやめれば、俺と あんたの娘は自然に縁がなくなる。その点は ご安心ください、オトーサマ」 商売柄、一応 敬語は知っているらしい。 風船ホストは、氷河よりは 接客の勉強はしているようだった。 しかし、客に対しての誠意と敬意がない。 「俺は、あんたの馬鹿娘も、他の女の子たちにするのと同じように、ちゃんと お姫様みたいに持ち上げて媚びてやったんだぜ。そうして、俺は あの店のナンバーワンになった。歌舞伎町の“LOVE”本店でナンバーワンってことは、東日本でナンバーワンってこと。あんたの娘は、金で俺を下僕扱いした。その金が続かなくなったから、俺は あんたの娘の下僕でいることをやめた。なあ、俺の言いたいこと、あんた、わかるか?」 それは わからないでもない。 最も愚かだったのは、秩父氏の娘。 愚かな娘を育ててしまった秩父氏。 だが、だからといって、哀れな父親を ここまで踏みつけにするのは残酷というもの――風船ホストも、秩父氏父娘同様に馬鹿である。 彼は、愚かな娘の哀れな父親に 言わなくていいことを言ってしまったのだ。 『挿れたら、ホストは終わり』 客と寝てしまったら、そのホストはもうホストではない。 関係を持ったあとも 金品を貢がせ続けていたのなら、それは ただのヒモである。 彼は、ルール違反を犯した。 ホストの仁義を破ったのだ。 その上、既に 十分に傷付いている質朴な“父親”を 更に傷付けた。 愚かな娘。 思い上がった風船ホスト。 娘の愚かさも 自分の愚かさも わかっているがゆえに、娘を貶める男に反論できず、肩を震わせて俯いているだけの父親。 『でもね、ナターシャちゃんが 同じように ろくでなしの男に引っ掛かったら、氷河ちゃんだって、同じようなことするでしょう?』 『氷河ちゃんだって、ナターシャちゃんの父親なんだから、秩父さんの気持ちは わかるでしょう』 蘭子の言う通り。 皆が馬鹿なら、氷河は 娘を傷付けられることで自身も傷付いている父親の味方をしたかった。 |