「僕たちが それぞれの修行地に送られたのは、夏が終わって、秋に入った頃だったでしょう」
真夏の暑さが 和らぎ、好天の過ごしやすい日が続いていたのに、瞬の心は沈んでいた。
城戸邸に集められた子供たちが 送られる修行地が決まった日から、ずっと。
それ以前は――それ以前の瞬は――どうして 自分たちは 聖闘士などというものにならなければならないのかと、自分の生きる道を自分で選ぶことが許されない自らの境遇を悲しんでいればよかった。
聖闘士になるための修行を強いられること、そのために 遠いところに送られるのは理不尽だと、嘆いていればよかった。
それらは、自分の外から押しつけられる無体な力で、瞬は自分の外の世界の ありようを悲しみ嘆いていれば よかったのである。
そして、だから 瞬は それらの悲嘆に耐えることができていたのだ。
だが、兄が送られる修行地が決まった時から、瞬の嘆きと憤りは 瞬の外の世界ではなく、瞬の中に――瞬自身に向けられることになったのである。

自分のせいで、兄は地獄の島に送られることになった。
自分が弱かったばかりに、兄は、本来は彼のものではなかったはずの苦難を強いられることになった。
自分がいなければ、せめて人並みに強ければ、兄は自ら その苦難の中に飛び込んでいくようなことはせずに済んだのに。
兄が ひ弱な弟の代わりにデスクィーン島に送られることになった その瞬間から――瞬は 兄への罪悪感に責め苛まれ、自身を責める日が続いていた。

その上、皆と離れ離れになるつらさ。
城戸邸で強いられていた聖闘士になるためのトレーニングの つらさなど、どれほどのものだろう。
そんな つらさなど、兄や仲間たちから引き離される痛みに比べれば どれほどのものだというのか。
なぜ 自分は気付かずにいたのだろう。
兄や仲間たちの存在が、彼等と共にいられることが、どれほど自分を力付けてくれていたのか。
本当に、どうして これまで気付かずにいられたのだろう?
「それまで、その幸福に気付かずに、泣いてばかりいた自分が情けなくて、なのに、自分にできることは、やっぱり泣くことだけで……。心の底から、僕は そんな自分に嫌気がさした」

どんな苦しみも 悲しみも つらさも、乗り越えてしまいさえすえば、それらの苦しみ、悲しみ、つらさは 笑って語ることのできる思い出になる。
人は 自分に そう言い聞かせ、苦難の時を耐え、苦難を乗り越えようとする。
あるいは、人に そう言って、苦難の中にある人を励まそうとする。
だが、たとえ乗り越えることができたとしても、“笑って語ることのできる思い出”にならない思い出もあるのだ。
あの頃のことは、瞬には決して、笑い飛ばすことのできない苦い思い出だった。
こうして聖闘士になって帰ってきた今も、あの頃の自分の弱さを悔いることはやめられない。
そんな あの頃――。

瞬が 一人でアンドロメダ島へ送られる日が近付いていた。
生きて帰ってこれるという希望は、かけらほどにも抱けない。
瞬は泣き暮らしていた。
兄を見詰め、仲間たちを見詰め――彼等と引き離されたなら、自分は もう二度と彼等に会えないのだと、そればかりを――“会えないこと”ばかりを――考えていた。

「もう会えない――。あれは諦観というより、確信だった。“もう二度と会えない”。自分が死ぬことより、兄さんやみんなに もう会えないことが恐くて、悲しくて――。実際、あのままアンドロメダ島に送られていたら、僕は生きて帰ってくることはできなかったと思う」
あのまま送られていたら。
だが、瞬は、“あのまま”――絶望だけを唯一の友にしたままで――アンドロメダ島に送られることにはならなかったのだ。

「あの不思議な手紙が届いたのは、そんな時だったんだ。僕が、目が溶けるんじゃないかって思うくらい、泣き暮らしていた時」
それは奇妙な手紙だった。
手紙といっても、封筒に入っているわけではなく、切手が貼ってあるわけでもなく―― 一枚の紙片が二つに折りたたまれただけのもの。
実際には、それは ただのメモ用紙だったのだが。

書かれているのは 日本語の ひらがなのようだったが、瞬の知っている日本語とは違っていた。
しばらく見詰めているうちに、その紙片に書かれている文字が、上下がそのままで、左右が逆になっている ひらがななのだということに気付く。
瞬が それを“鏡文字”と呼ばれる文字だということを知ったのは、聖闘士になって帰国してからだった。

「鏡文字という言葉は知らなかったけど、鏡に映せば読めるんだってことはわかった。だけど、あの頃、僕たちは鏡を遠ざけられてたでしょう」
あの頃 城戸邸にいた子供たちが鏡から遠ざけられていたのは、鏡を割って、ナイフ代わりに使おうとした危険な子供がいたからだった。
他ならぬ、瞬の兄である。

当時、一輝は、瞬を庇うために辰巳に逆らうことが多く、辰巳に目の敵にされていた。
辰巳は しばしば、反抗的な瞬の兄に、食事を与えず ロープで縛って城戸邸の地下室に放り込んでおくという罰を与えた。 
一輝がロープを切るために鏡の破片を隠し持っていることを知って激怒した辰巳は、子供たちの生活圏にある すべての鏡を撤去してしまったのだ。
ガラスは強化ガラスだったので撤去されずに済んだのだが、陶器やガラスの食器も すべてプラスチック製に変えるという念の入れよう。
もし 城戸邸の窓ガラスが普通のガラスだったなら、辰巳は、一輝をやり込めるために、子供等の部屋の窓ガラスを すべて取り除くくらいのことはしていたに違いない。

その手紙は、瞬が いつも外を眺めていた部屋の窓の桟に置かれていた。
書かれていた文字は、『しゅん。なくな』
瞬の兄の口癖である。
いつのまにか 瞬の仲間たち全員の口癖になっていた その言葉が、紙片には記されていた。

「大人の字か子供の字なのかも わからなかった。それだけの言葉を、なぜ わざわざ暗号めいた書き方で書かなきゃならないのか、そもそも なぜ手紙なのかが わからなくて――だって、口で言えばいいだけのことでしょう? 僕は、誰が何のために そんなことをするのか、不思議でならなかった」
「確かに妙な話だな」
紫龍が、ごく軽く頷く。
紫龍にも わからないことなら、自分に わからなくても、それは おかしなことではないと、瞬は妙な納得の仕方をした。

「最初は、兄さんなのかと思ったけど、でも、兄さんが そんなことをするはずがないでしょう? 兄さんこそ、直接 僕に言えばいいんだもの。実際、兄さんは直接 僕に言ってくれていた。いったい 誰なら そんなことをするのかを考えて――でも、城戸邸には子供だけでも100人もいたし、修行地に送られる日が近付いているせいで、みんな ぴりぴりしていて、そんなことをしてる余裕のある子はいないように見えたし、僕、神様や幽霊の仕業なんじゃないかって、そんなことまで考えたんだよ」

鏡文字の手紙は 翌日も届いた。
『おまえがなくと、おれもかなしい』
翌々日も、
『おまえが しんだら、おれはなく』
翌々々日も、
『おとなになった おまえに あいたい』
それは瞬の許に届けられた。






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