世界が終わるまでは






城戸邸のある東京都S区Sは、いわゆる高級住宅地。
都内にあるにもかかわらず閑静で、付近にビルと名のつく建物は存在しない。
少なくとも、徒歩20分圏内には存在しない。
城戸邸は もちろん 周辺にある家の敷地は、どの家のものも細分化されておらず広大。
当然、町の面積に比して、住宅(邸宅と言うべきか)の数は少なく、人口密度も低い。

にもかかわらず、周辺の道の幅が広く、常に完璧に整備されているのは、大型の乗用車が 余裕をもってすれ違うことができなければ、道としての用を為さないから。
20分歩けば、某私鉄の駅があるのだが、周辺の地域に住む人々は滅多に電車など使わないのだ。
移動は、専ら車で行なう。
とはいえ、もともと住んでいる人間の数が少ないのだから、整備された道路の交通量は 極めて少ない。
自動車も徒歩で歩く人間も。
ごく稀に自転車を見掛けることもあるが、それは100パーセントの確率で、地域の外から来た人間のものと決まっていた。

無論、立派なのは道路だけではない。
和洋の別はあるにしろ、古くからある大邸宅が多く、石か木の別はあるにしろ、どの家も 高い塀で囲まれていて、邸内を垣間見ることは ほとんどできない。
どの家も 鑑賞に値する美しい庭園を抱いているのだが、その庭の景観を鑑賞できるのは 家人と 家人に招待された客人のみなのだ。

それらの邸宅の中でも、城戸邸は特に広い敷地と住居を有する家(?)だった。
一私人の住宅で百人の子供を養育できるのだから、その広さも推して知るべし。
そこが、瞬たちの住まい――“家”というより“施設”だった。



幼かった瞬に、その極秘情報を教えてくれたのは星矢だった。
おそらく、星矢は、元気のない仲間に興味深い情報を提供して、仲間の沈んだ気持ちを引き立たせようとしたのだろう。
その頃、瞬の心は ひどく沈んでいた。
その後の数年間の孤独を まだ知らされていなかったにもかかわらず。

「知ってるか、瞬? 城戸邸の隣りの隣りの隣りの向かいの家にマッドサイエンティストがいるんだってさ。庭の半分がブナの林になってる、超怪しい家。そのマッドサイエンティストってのが、不老不死の薬だか、爆弾だか、ロケットだか、ロボットだかを作ってるらしい」
「え……」
気負い込んで語ってくる星矢の瞳は、いつものように明るく輝いている。
星矢の明るさを、瞬は いつも羨んでいたが、同時に、なぜ星矢がいつも明るいのかを、瞬はいつも不思議に思っていた。
守ってくれる親のいない子供たちに、世界は こんなにも冷たいのに――と。
それは さておき。

不老不死の薬と爆弾は、全く違う。
ロケットとロボットも、全く違う。
いったい 問題のマッドサイエンティストは、本当は何を作っているのか。
それは、いつも明るい星矢を 更に明るくするようなものなのか。
それ以前に、マッドサイエンティストとは いったい何なのか。
そこからして、瞬は知らなかったのである。
だから――二度三度 瞬きをして、瞬は星矢に尋ねた。

「マッドサイエンティストって、何?」
「怪しい研究をしてる科学者のことを、マッドサイエンティストって 言うんだってさ。悪いマッドサイエンティストなら、世界征服か人類の滅亡を企んでて、いいマッドサイエンティストなら、正義の味方を作るための道具を作ってるんだと思う」
「正義の味方を作る道具って?」
「変身ベルトとか、変身バトンとかじゃないか? その道具で正義の味方になれば、何か特別な力を使えるようになるんだよ」
「……」
不老不死の薬は どこに消えたのだろう?
――と、瞬は思ったのである。
が、不老不死の薬など 何の役に立つのかがわからなかったので、瞬は 消えた不老不死の薬のことは無視することにした。

星矢の話が 脈絡なく あちこちに飛ぶのは、いつものことなのだ。
そんなものより 正義の味方になれる変身ベルトの方が、実際に役に立ちそうな気がする。
「それがあったら、強くなれるの?」
「弱くなる道具作ったって、仕方ないだろ」
「うん」
「その家、夜になると不気味な火や光が見えたり、機械の変な音が聞こえたり、爆発の音が聞こえたりするんだってさ。厨房のおばちゃんたちが噂してた。おばちゃんたちも、人から聞いただけみたいだったけど」
「強くなる道具……」

瞬が その道具に興味を持ったのは、瞬が 自分を弱い人間だと思っていたから――自分が 夢に怯えるような恐がりの、心も身体も弱い人間だと思っていたからだった。
瞬は、その頃、毎晩、恐い夢を見ていた――世界が壊れる夢を見ていたのだ。

世界が闇に覆われる夢。
植物が枯れ、動物が死に絶える夢。
もちろん人間も例外ではない。
光の消えた世界では、地上の命の すべてが滅びるのだ。

『世界に光など不要。地上の光よ、消え去れ。そして、地上の汚れた命は すべて滅びよ』
見知らぬ誰かが、すべての命の消滅を願っていた。
漆黒の髪、漆黒の長衣。
顔だけが臈長(ろうた)けて白いのだが、その顔立ちは はっきりしない。
そして、なぜか、彼の手下らしい者たちが瞬を捕まえようとして 世界中で蠢いている。
彼等は顔も真っ黒で、影法師のよう。
瞬は、なぜかは わからないが、彼等が死の国の住人だということを知っていた。

だから 必死に逃げ、彼等に見付からないよう物陰に隠れたりもするのだが、気が付くと 瞬は死の国の人間たちに囲まれているのだ。
影法師のような亡霊たちは、瞬を取り囲み、
『お望みの通り、まもなく 地上世界は滅びます。お喜びください』
と口々に言う。
夢の中で彼等に捕まっても、瞬は彼等に命を奪われたり、傷付けられたりするわけではない。
彼等は、瞬に褒めてもらいたがっていた。
そして、瞬は、それが夢の中の出来事だということを ちゃんと知っているのだ。
瞬が恐ろしかったのは――死の国の者たちが持っている(のかもしれない)不気味な力ではなく、この世界が滅びることを、自分が本当に望んでいるような気がすることだった。

夢だということは わかっている。
早く目覚めたいと、気持ちが急く。
目覚めてしまいさえすれば、そして、兄や仲間たちの顔を見さえすれば、自分は決して そんなことは望まないと確信できる。
実際、目覚めてしまえば、瞬は、世界が滅びてしまうのは絶対に嫌だと思うのだ。
だが、夢の中では そう思うことができない。
大きな力が、そう思うことを瞬に禁じ、瞬は その力に抗い切れなかった。

強くなれば、あの死の国からやってきた影法師たちを追い払えるのではないか。
あの強い力を退けることができるのではないか。
あの夢を見ずに済むようになるのなら、自分は どんなことでもする。
どんなことでもできる。
瞬は、そう思っていた。

「おばちゃんたちの噂がほんとなのかどうか、探ってきてくれよ。おまえ、よく、外に お使いを頼まれるだろ? 俺はさ、外に出たら帰ってこないって思われてて、外に出してもらえないんだよ」
そんな無茶を言う星矢に、瞬が、
「今度、お使いを頼まれた時にね」
と答えたのは、星矢の頼み事を断れなかったから。
そして、もしマッドサイエンティストに会うことができたなら、彼(?)に 強くなる道具を貸してもらえるかもしれないという、微かな希望を抱いたからだった。






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