その機会は、意外に早く やってきた。
星矢に マッドサイエンティストの話を聞いた日の翌日、瞬は城戸邸のメイド頭の女性に 宅配便の営業所に行って伝票を数枚 もらってきてほしいと、私的な お使いを頼まれたのだ。
瞬がわざわざ出向くまでもなく、星矢の言っていた城戸邸の隣りの隣りの隣りの お向かいの家は(“隣りの隣りの隣りの向かいの家”といっても、城戸邸からは1キロ近く離れている)は、お使いの帰り道の途中にあった。

星矢が言っていた通りに、暗いブナの林を抱えた家。
その家の門前で、瞬は、自分が 恐れも躊躇もなく ここに来ることができたのは(遠回りして避けることをしなかったのは)、どちらにしても邸内に入ることはできないだろうと思っていたからだったのではないかと、自分を疑ったのである。
これは罠なのではないか。
夢の続きなのではないか。
瞬は、その屋敷の門前で その可能性を考えたのである。
でなければ、何もかもが できすぎている――と。

マッドサイエンティストの家の門は開いていたのだ。
これまで幾度か、その家の前を通ったことはあったが、門が開いているのを見るのは初めて。
いつもは固く閉じられている鉄製の門が、まるで瞬の来訪を知っていたかのように、今日は開いていた。

このまま帰って、『門は開いていたけど、入れなかった』と星矢に報告すれば、星矢は、『なんで入って、確かめてこなかったんだよ』と、がっかりするだろう。
そして、瞬を臆病者だと思う。
開いている門の前で 5分以上 悩み、結局 瞬が邸内に入っていくことにしたのは、マッドサイエンティストの力を借りて強くなりたいという望みのせいではなかった。

『怪しい研究をしてる科学者のことを、マッドサイエンティストって 言うんだってさ。悪いマッドサイエンティストなら、世界征服か人類の滅亡を企んでて、いいマッドサイエンティストなら、正義の味方を作るための道具を作ってるんだと思う』
星矢は、そう言っていた。

この家にいるマッドサイエンティストが 悪いマッドサイエンティストなのか、いいマッドサイエンティストなのかを確かめて、もし悪いマッドサイエンティストなら、怪しい研究をやめてくれと頼まなければならない――と、瞬は思ったのである。
そうして、悪いマッドサイエンティストが世界征服や人類の滅亡の企みをやめてくれれば、瞬自身が強くならなくても、あの暗い夢を見ずに済むようになるかもしれない。
もし この家にいるマッドサイエンティストが いいマッドサイエンティストなら、『僕を強くしてください』と頼まなければならなくなるが、瞬は どちらかといえば、前者であることを望んでいた。
泣き虫の子供を強くすることより、世界征服や人類滅亡の企みをやめさせることの方が容易で、多くの人のためにもなると思うから。

そっと門の中を覗き込む。
まだ葉を落としていないブナの木の小さな林があるせいか、門の向こうは、日中なのに、鬱蒼としていて薄暗かった。
いつ 誰に見咎められるかと びくびくしながら、門を行き過ぎる。
途端に、空気が変わった。――ように、瞬には感じられた。
交通量が少ないとはいえ 舗装されたアスファルト道の上から、林を抱く小さな自然の中に移動したというのに、空気が埃っぽい。
気温も、2、3度上昇したように思える。
何か大きな建築物を建てようとしている工事現場、あるいは、逆に 大きな建築物を壊している工事現場に足を踏み入れたような――そんなことがあるはずがないのに、そんなふうに、瞬は感じた。

ブナの林に半ば以上隠れて、敷地の奥に母屋らしき古い日本家屋がある。
その家を“古い”と感じるのは、周囲が暗い上に、家の中に灯りがなく、しかも 人のいる気配が感じられないから――だったかもしれない。
マッドサイエンティストというものは、こんな普通の家の中で怪しい研究をしているものなのか。
それ以前に、留守なら なおのこと、人の住居に黙って入っていったら 泥棒と間違われるのではないか――。

戸惑いと懸念で 前に進めなくなった瞬の耳に、母屋ではなく林の奥の方から 奇妙な音が飛び込んできた。
自然が作り出す音ではなく、何か人工的な機械音。
そして、ちらちらと木々の間に見え隠れする光。
「あ……」
どうやら、この敷地の中には、母屋とは別に 離れのような建物があるらしい。

瞬が そちらの方に向かって歩き出したのは、何よりも、普通の(他人の)住宅に勝手に入るわけにはいかないと思ったから。
そして、怪しい研究をしているマッドサイエンティストというものは、普通の住宅ではなく、工場もしくは作業場と表すべき 生活感のないところで、自分の仕事をしているものだろうと思ったから――だった。
実際、ブナの木々の向こうに現れたのは、まさに そういう建物だったのである。
朽ちかけた倉庫のような簡素な建物。
壁も屋根も、木とトタンでできている小屋。
先ほど瞬の足を止めた音と光は、そこから発せられたものだったらしい。

心臓をどきどきさせながら 薄い木の扉を押すと、それは耳障りな軋み音を響かせて 内側に開いた。
だだっ広い ひと間。
床はなく、地面が剥き出し。
古ぼけた機械の残骸や 鉄くずが、全く整理されずに雑多に積まれている。
パーティション代わりに立てかけられているらしい鉄の板の向こうで、誰かが 何かの機械を(?)組み立てて(?)いた。

「誰だ」
扉が響かせた音に気付いたのだろう。
畳一枚分ほどの大きさの鉄板の向こうから、侵入者の無断侵入を咎める声が響いてきた。






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