『タイムマシンのことは 誰にも言うなよ』
瞬が口止めされたのは、タイムマシンのことだけだった。
だから、『奇妙で簡素な建物の中で、中学生くらいの歳の少年が何かを作っていた』程度のことは、星矢に問い詰められたなら、瞬は彼に話してしまっていたかもしれない。
だが。

この世界が、あと何年かのうちに滅びてしまうという、彼の言葉。
瞬が毎晩見る夢と符丁の合う、不吉な予言。
自分だけが滅亡する世界から逃げるためにタイムマシンを作っている少年の存在。
自分一人だけが生き延びることの是非と、仲間たちと共に滅びることの是非。
そのどちらが幸せで、どちらが恐くないのか。
どちらを選ぶのが正しいことなのか。
カケルと名乗ったタイムマシン製作者は、いいマッドサイエンティストなのか、悪いマッドサイエンティストなのか。
考えても考えても答えに行き着けないことを 沈んだ様子で考えている瞬を見て、星矢は勝手に誤解してしまったようだった。

「そんな暗い顔しなくても、怒んねーよ。おまえ、どうせ、知らない よそんちに潜り込んでいけなかったんだろ。おまえに んな無茶ができるなんて、俺も思ってねーから。おまえに んなことさせたって、一輝にばれたら、俺が奴に殴られる」
星矢は そう言って、瞬を問い詰めることをしなかったのだ。
『誰にも言うな』というカケル少年の指示を反故にせずに済んだことは、瞬の心を安んじさせたのだが、そのせいで、瞬は、彼の許で見聞きした事柄について 仲間たちに相談することができなくなってしまったのである。

自分だけが生き延びようとしている彼の決意は正しいのか。
一人で生き延びることより、皆と滅びることの方を選んだ自分の選択は間違っているのか。
もしかしたら、仲間たちは、何としてでも、自分一人だけでも 生き延びたいと願うかもしれない。
だとしたら、あと何年かで世界が滅びてしまうことだけは、皆に知らせておいた方がいいのではないか。
考えあぐねて――瞬は、仲間たちに訊いてみることにしたのである。
あと何年かで世界が滅んでしまうとしたら、皆はどうするのか。何をするのか。どうしたいのか――を。

「ねえ、星矢。星矢は、あと何年かで世界が滅んでしまうとしたら、どうする?」
お使いを終えて帰ってきてからずっと暗い面持ちで何事かを思い悩んでいるふうだった瞬が 急にそんなことを言い出したのに、星矢は驚いたようだった。
きょとんとして、
「何だよ、急に。なんで、んなこと訊くんだ?」
と、まず質問の意図を問うてくる。
問われたことに答えられずにいた瞬に、紫龍が(おそらくは意図せずに)助け舟を出してくれた。

「唐突ではあるが、よくある質問だな。その答えで、その人間にとって 最も大切なものが何なのかがわかる」
「ふーん。よくある質問なんだ」
それで納得してくれるところが、星矢のいいところ。
星矢は ほとんど間を置かずに――深く考えた様子もなく、
「それって、宇宙人が攻めてくるとか、そういうことか? だったら 俺は、世界が滅びないように戦うぜ。んで、必ず勝つ。俺、姉さんを見付けるまでは死ねないし、見付けたら、姉さんを守ってやらなきゃならないもんな」
と答えてきた。
星矢は、自分一人だけが生き延びることなど考えもしないらしい。
戦って、勝つ。
いかにも前向きな星矢らしい答えだと、瞬は思った。

「俺は、世界を救うための方策を模索するだろうな。良い策を講ずることができなくても、最後の一瞬まで諦めない。他にできることもないだろうし、最後まで じたばたするさ。もしかすると、もしかするかもしれないだろう?」
「うん……」
紫龍には、星矢のように特定の“守りたい人”はいない。
だから かえって、個人のことではなく“世界”のことを考えるのだろう。
紫龍もまた、自分一人だけが生き延びたいとは考えないようだった。

「なぜ世界が滅びることになるのかによるだろう。宇宙人が攻めてくるのと、天変地異で滅びるのとでは、対応が全く違ってくる」
いつになく慎重に確認を入れてきたのは瞬の兄。
「どう違うの?」
瞬が問い返すと、一輝は暫時 考え込み、
「侵略者が相手なら、無論、抵抗するぞ。最悪でも 相打ちにもっていって、絶対に敵の思い通りにはさせん。天変地異なら、まず おまえを安全な場所に避難させて――大丈夫、おまえだけは守ってやる」
「兄さん……」

『その答えで、その人間にとって 最も大切なものが何なのかがわかる』
星矢や紫龍が、それを いかにも一輝らしい答えだと思っているのが、瞬には わかった。
瞬も、その答えを兄らしいと――兄なら そうするのだろうと思った。
お荷物でしかない弟を さっさと見捨ててしまえば楽になれるのに、兄は決して そうしないのだ。
兄らしくて――瞬は泣きそうになった。
そして、あの奇妙な秘密工場でタイムマシンを作ろうとしていた少年を、その心を、奇異に思ったのである。

人は、大切な人のために、大切な人を守るために、戦い、抗い、生きようとする。
肉親のいない紫龍でさえ、自分だけが助かればいいとは考えない。
瞬は、兄や仲間たちの気持ちは よくわかった。
理解でき、共感でき、自然だとも思う。
では彼は――カケルと名乗った あの少年は、なぜ自分だけが生き延びようと、なぜ自分だけが逃げられればいいと考えることができたのだろう?
瞬は本当に――心の底から、それが不思議でならなかったのである。

「あ……氷河は……?」
兄の強さと優しさのせいで潤みかけていた瞳を隠すように 手で擦り、瞬は その場にいた もう一人の仲間に尋ねた。
氷河は、星矢や兄以上に肉親への情が深く強い。
おそらく氷河は、星矢や兄以上に、強く優しく愛情のこもった答えを返してくるだろう。
瞬は、そう思っていた。
そう確信していた――のに。

「俺は何もしない。黙って その時を待つ。死ねば、マーマに会える」
氷河の答えは、驚くほど冷たいものだった。
否、それは冷たいのではない。
温度がなかった。

そして、瞬は気付いたのである。
あの秘密工場でタイムマシンを作っていたカケル少年の目。
涙を忘れた人のそれのように乾ききっていた、あの瞳。
どこかで見たことがあると思った、あの瞳。
それは、氷河の瞳だった。

城戸邸に来て 氷河に初めて会った時、氷河の青い瞳を見て、瞬は同じことを思ったのだ。
涙を持たない人の瞳のようだと。
あとになってから、氷河が一ヶ月前に母を失ったばかりだということ、氷河の目の前で 氷河のために 氷河の母が自分の命を放棄したらしいという話を聞き、瞬は知ったのだった。
氷河は 涙を持っていないのではなく、母のために すべての涙を使い切ってしまった子供なのだということを。
氷河は、氷河の大切なものを失った。
氷河の大切なものは、今では 永遠に彼の手の届かないところにある。

自分だけのためにタイムマシンを作っていたカケル少年の目は――彼の目も、氷河のそれと同じだったのだろうか――?
だが、氷河は、彼より悲しい。
『死ねば、マーマに会える』とは。
まだカケル少年のように、自分だけが助かりたいと言われた方が、瞬は悲しくなかった。

「氷河……」
泣くことのできる人間は幸せなのかもしれない。
カケル少年も、瞬を 幸せだと言っていた。
あれは、そういう意味だったのだろうか。
瞬の瞳が涙を生み始めていることに気付いたらしい氷河が、まるで その涙を阻止するように、
「瞬。おまえは?」
と問うてきた。

「え……」
瞬は、答えに窮したのである。
瞬は、自分の答えを考えていなかったから。
皆と一緒なら それでいい――としか。

「僕に何かできるのなら、それをするけど……。きっと、僕にできることなんか、何もない……」
頼りなく情けない その答え。
誰よりも無力な その答え。
誰かのために、何もできない自分。

『よくある質問だな。その答えで、その人間にとって 最も大切なものが何なのかがわかる』と、紫龍は言っていた。
その人間にとって 最も大切なものが何なのか。
“その人間にとって最も大切なもの”より更に大切なことは、大切なもののために、自分に何ができるか、何をするか――だろう。
生きるも死ぬも 皆と一緒なら それでいいという瞬の望みは、皆のために何もできないという点で、最も無価値な望みだった。
だから――誰かのために何かができる人間になりたいと、瞬は思ったのである。
心の底から、そう思った。



次に お使いを頼まれた時、瞬が あの奇妙な家に再び赴いたのは、世界のすべてを救うことは無理でも、仲間たち 全員のために何かをするとこは無理でも、せめて一人の仲間のために何かをしたいという思いに突き動かされてのことだった。
瞬は、カケル少年に、もしタイムマシンができたなら、その機械で過去に行き、氷河のマーマが死なないようにしてほしいと頼んでみようと思ったのである。
そうすれば、氷河は あんな悲しいことを言わずにいられる子供になれると、瞬は思った――そうなることを願ったのだ。

しかし、門は固く閉ざされていた。
その後も、お使いを頼まれるたびに毎回、瞬は カケル少年の家の門の前まで行ったのだが、その冷たい門が開かれることはなかった。






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