カケル少年と初めて、ただ一度の出会いを出会った あの時から8年。 館は洋館になり、門は開いていた。 あの時 同様、門の向こう側にはブナの林、人の気配はない。 門を通り過ぎた瞬間に空気が変わるのも、あの時と同じ。 気温も少し違う。 奥に進むにつれて、瞬のあの時の記憶は鮮明になり、林の奥に自分が憶えているのと全く同じカケル少年の秘密工場が現われた時には、瞬は それこそタイムマシンで過去にやってきたような錯覚と感動に捉われたのである。 だが、時は着実に流れていた。 薄い木の扉を押し、中に入る。 8年前に十代前半だったカケル少年は、20歳過ぎの青年―― 大人になっていた。 大人になっても丸刈りで、今日は黒い服ではなく、灰色の作業服を身に着けている。 違う服を身に着けている彼を見て、瞬は今になって気付いたのである。 8年前に、おそらく中学生だったカケル少年が着ていたのは詰襟の学生服―― へたをすると国民服と呼ばれる男子用の制服だったことに。 あの頃、そういう流行があったのだろうか。 戦時中、終戦直後のファッションが再ブームになるような? だが、カケル少年は――今ではカケル青年になっていたが――そういう流行を追うタイプの人間には見えなかった。 少なくとも、今、丸刈りは流行っていない。 成人しても、少年の時の髪型を続けているのだから――これは合理性と効率性を考慮してのことなのだろう。 ――と、瞬は判断した。 タイムマシンはまだできていないらしい。 カケル少年はカケル青年になったのに、彼の前にある原動機やリード線は8年前と同様、雑多に散らばっているだけのように見えた。 原動機は、8年分 進歩して、液体燃料で動くものになっている。 瞬は、彼に、『世界は滅びません。あの時、地上世界を滅ぼそうとしていた力は もう排除されました』と知らせるつもりだった。 『新たな脅威が出現しても、僕と僕の仲間たちが必ず、この世界は守り抜きます』と。 そのために、ここに来た。 「カケルさん。僕のことを憶えていらっしゃいますか」 忘れていて当然と思っていたのに――カケル少年 改め カケル青年は、瞬のことを憶えていた。 「随分と綺麗になった。なぜ 来た。幸せでなくなったのか?」 8年前と同じように抑揚のない声。 瞳は相変わらず、涙を忘れた者のそれ。 「あれから、僕は何度もここに来ました。氷河を悲しませているものをなくしてほしくて。でも、会えなかった。あれから、どうしてらしたんですか?」 知らせたいことや 聞きたいことは 幾つもあったのだが、実際 瞬は それらのことを彼に伝えようとしたのだが――結局、瞬は彼に、 「いいえ」 とだけ答えた。 『僕は今も仲間たちと一緒で、相変わらず 幸せなままです』は省略する。 瞬の返事を聞いても、カケル青年は、 「そうか」 と低く呟き、頷いただけだった。 そうしてから、 「この国は 壊れて、復興など絶対に無理だと思っていたが、立ち直りつつあるな。人間の力というものは、ほとんど驚異だ」 ほとんど独り言のように、そう言った。 「タイムマシンはまだできていないんですか」 揶揄する意図はなく――だから 真顔で、瞬は尋ねた。 笑ったのは、むしろカケル青年の方。 「タイムマシンか……」 彼の声には 自嘲の響きが載っていた。 「そんなもの、本気で作れると思ってたわけじゃない。ただ、何かをしていたかっただけだ。いや、あの頃は 本気だったのかもしれない。よくわからないな……」 8年の時が経ち、8年分、瞬も大人になった。 まだ十代とはいえ、もう瞬には子供向けの嘘は通じないと思ったのだろうか。 カケル青年は、8年前 彼がタイムマシンを作っていた本当の理由を、瞬に語ってくれた。 「母さんが――母が 自動車事故で大脳に損傷を受け、植物状態になったんだ。9割9分9厘、回復の見込みなし。数年のうちに、意識を取り戻すことなく亡くなるだろうと言われた。脳幹は ほとんど無傷だから、画期的な治療法が発見されれば、もしかすることもあるかもしれないと」 「あ……」 「タイムマシンで、未来に“画期的な治療法”を求めに行こうと思っていた。だが、間に合わなかった。死んだよ。ちょうど1年前の今日」 カケル青年は、瞳だけでなく声も乾いている。 「……」 瞬も声が出ない。 幼い頃、自分も彼に、『氷河のマーマを死なずに済むようにして』と願おうとしたことを思い出した。 戦いを重ねているうちに、氷河はタイムマシンの力を借りなくても 自分の力と仲間たちの支えで、彼の悲しみを乗り越えると信じられるようになり、いつしか 忘れてしまった願い。 カケル青年は、氷河と違って、堂々と『母さんのために』と明言することができなかったのだろうか。 だから、何年かのうちに世界が滅びるなどという嘘をついたのだろうか。 その“何年か”は、彼の母に残されている時間だったのだ――。 涙を使い果たしたカケル青年の瞳は、今も乾いたまま。 代わりに 瞬の瞳から涙が零れ落ちる。 「なら、どうして今も ここに――」 泣いていない人に、『泣かないで』と言うことはできない。 『お気の毒に』『元気を出して』 言葉は どれも空々しかった。 「タイムマシンで、母さんが死ぬ前に行って、未来に連れていけば、画期的な治療法とやらが 母さんを救ってくれるかもしれないだろう?」 「え……」 結局 母のために何もできなかった自分の無力を、彼は嘲っているのだろうか。 それとも、それは悲嘆なのか。未練なのか。 声も瞳も乾いているカケル青年の真情は、瞬には読み取ることができなかった。 ただ、8年の時を経て、わかったことが一つ。 彼は いいマッドサイエンティストでも 悪いマッドサイエンティストでもなく、悲しいマッドサイエンティストだったのだ。 悲しいマッドサイエンティストが、涙でいっぱいの目を見開いている瞬に、 「嘘だよ……」 と呟く。 「君が幸せなままなのなら、よかった。二度と ここに来てはいけないよ」 悲しいマッドサイエンティストは そう言って、8年前と同様、この場を立ち去るように秘密工場の扉を、瞬に指し示した。 瞬の名も聞かずに。 |