『二度と ここに来てはいけない』 そう言われて、かえって瞬は、彼がどういう人間なのかが気になったのである。 自分の家の敷地内に何を建てようが、それは所有者の勝手だが、この高級住宅地に、不揃いの木の板とトタンで小屋を建てるという行為自体が、酔狂を通り越して、もはや奇矯。 秘密工場にある工具も、妙に古く、時代遅れのものだった。 何より、あの家の空気が 外と違っている。 カケル少年とカケル青年は、その存在が不自然だった。 「沙織さん。あの お宅は、どういうお宅なんですか。どんな方が 住んでらっしゃるんでしょう。ここの隣りの隣りの隣りの お向かいの――」 唐突な質問だったと思うのに、沙織は それを奇異に感じた様子は見せなかった。 むしろ彼女は、それを ごく自然な疑念と思ったらしい。 僅かに眉を曇らせ、そして 彼女は瞼を伏せた。 「ああ。忌中の……一週間前に、ご当主が亡くなったのよ」 「え……」 彼女が それを自然な問い掛けと思ったのは、それこそ自然なことだったろう。 しかし、瞬には、それは まるで自然なことではなかった。 瞬が、あの家で カケル青年に再会したのは、今日の午前中。 あの家に、そんな気配は全くなかったのだ。 沙織が しんみりした口調で、言葉を継ぐ。 「名前くらいは聞いたことがあるでしょう。車谷技研工業 創業者の車谷駆氏」 「クルマダニ カケル……さん?」 「ええ。ご当主は、80歳を超えたところだったようね。ちょうど日本人男性の平均寿命。為すべきことを為して亡くなったといっていいのかもしないわ。車谷氏は、終戦直後、彼が新制中学に入学したばかりの頃に、軍のトラック事故が起こした自動車事故に巻き込まれて、お母様が植物状態になってしまったのだそうよ。お母様は 数年後に亡くなられて、それで、ご当主は 事故を起こさない車を作ると決意なさって――もともと才能があったのか、努力と情熱のたまものなのか、自動車関連の特許を幾つも取得して、財を成した。戦後、焼け野原だった この辺りに、最初に家を建てた お宅だったと聞いているわ」 「あ……でも……」 何か話がおかしい。 では、幼い頃、星矢が聞いた噂のマッドサイエンティストは、一昨日 亡くなった人で、自分が会った中学生のカケル――タイムマシンを作ろうとしていたカケル少年は、その人の孫か何かだったのだろうか。 亡くなった車谷家の当主は、孫に自分と同じ名をつけたのか。 母を自動車事故で植物状態にされてしまった祖父の夢を、孫が叶えようとしていたのか。 それはあり得ない。 とはいえ、孫のカケル少年の母親も、祖父の母親と同じように自動車事故に遭い 植物状態になった――ということは、更に考えにくい。 絶対に あり得ないこととは言えないが、それは どれほどの確率で起こり得ることだろう? 「車谷氏には、お孫さんがいらしたんでしょうか?」 「いいえ、車谷氏は、ご結婚はなさらなかったの。お子さんも お孫さんも――近親は一人もいらっしゃらないそうよ。ずっと 幾人かの使用人たちと暮らしていたとか。莫大な財産は、ここ数年で ほとんど寄付寄贈済み。見事な ご最期と、皆さん、感心していらしたわ。全く ご自分の益を考えず、業界のために務められた方で、ご葬儀は 業界の団体葬。参列者の方々は、どなたも涙ぐんで、感謝の言葉を述べてらしたわね」 沙織の声が遠くに聞こえる。 では、あれは誰だったのか。 8年前、自分が出会ったカケル少年は。 今日、自分が再会したカケル青年は。 これは、クロノスの 悪戯か。 自分は、終戦直後の過去に行っていたのか。 それとも、タイムマシンはできていたのか。 だとしたら、なぜカケル少年は、そのタイムマシンを使って 母の命を取り戻そうとしなかったのか。 あるいは、母を見舞った運命に 憤り嘆くカケル少年(青年)の思いの強さが、時の流れを超えてしまったのだろうか――。 瞬には わからなかった。 車谷カケル氏の人生が どんなものだったのか。 彼の夢は叶ったのか、叶わなかったのか。 彼は 幸福だったのか。そうではなかったのか。 自身の生に満足していたのか、悔いを残していたのか。 彼の瞳は 最期まで 涙を忘れたままだったのだろうか――。 「ご立派な方だったんですね」 かろうじて そう応じることのできた瞬に、 「車谷氏 ご本人が 幸せだったのかどうかは わからないわ。でも、彼が多くの人を幸せにしたことは、確かな事実よ」 と答えてきた沙織は、城戸沙織という一人の少女ではなく、グラード財団総帥でもなく、女神アテナの顔をしていた。 |