翌朝。クリスマスの朝。 朝食は、白いマカダミアナッツクリームで全体を覆ったパンケーキ。 ナターシャはスタイリストなので、雪のように純白のパンケーキと一緒なら、モミの木の色の野菜ジュースも飲んでくれるはず。 朝食の準備を終えた瞬は、枕元にサンタさんからのプレゼントを見付けたナターシャが、頬を上気させて その報告にやってくるのを待っていたのである。 ナターシャより その言動に予測がつかない氷河が 途轍もないミスを犯すことを危惧していたが、氷河は 昨夜 無事に――何かに蹴躓いて大きな音を立て、ナターシャを目覚めさせるようなミスをしでかすこともなく――クリスマスプレゼント配達の仕事を終えた。 ナターシャに 大人の画策を気付かれぬよう、サンタクロースのコスプレ衣装は ナターシャの目の届かぬところに隠すよう指示した。 これで完璧。 そう、瞬は思っていたのである。 クリスマスの朝、リビングルームにやってきたナターシャの浮かぬ顔を見るまでは。 「……? ナターシャちゃん、おはよう」 「オハヨウ、マーマ」 ナターシャは、表情だけでなく 声も沈んでいる。 昨夜 ナターシャの許にサンタクロースが来たことなど知らないという設定になっている氷河は、ナターシャが サンタクロースからのプレゼントの報告を始めるまで 素知らぬ振りをしていなければならないのだが、ナターシャの登場の様子が あまりに予想と違っていたので、彼は顔には出さずに 困惑しているようだった。 瞬が最初に考えたのは、昨夜 プレゼントを置く際、氷河が何か致命的なミスを犯したのではないか――ということだった。 指紋や足跡ということはないだろうが、氷河は、サンタクロースからのプレゼント(ということになっているもの)に、『パパとマーマより』と書かれたカードを付けるくらいのミスを、ナチュラルにしでかしかねないところのある男なのだ。 瞬は、探るように ナターシャに尋ねた。 「ナターシャちゃん、どうしたの。サンタさんからのプレゼントがなかった?」 「ウウン。アッタ」 「プレゼントが気に入らなかったの?」 「マダ、開けてナイ」 「ど……どうして?」 「……」 プレゼントの中身を確かめていない理由を、ナターシャは話したくないらしい。 ナターシャは、やはり、自分の許にやってきたサンタクロースが氷河だということに気付いてしまったのだろうか。 そして、サンタクロースの実在性に疑いを抱くことになってしまったのだろうか。 そう危惧して――瞬は、テーブルの上に置いていたスマートフォンを急いで手に取り、そのディスプレイをナターシャに指し示したのである。 瞬のスマホには、昨夜 ナターシャのために撮ったサンタクロースの写真が10枚ほど 保存されていた。 アップにして、ばれると困ることが ばれないように、すべてロングショット。 ほとんどがリビングルームでの写真だが、念のために、ナターシャの松ぼっくりを飾って作ったリースの横に立つサンタクロースの図も収めてある。 昨夜 サンタクロースが ナターシャの許にやってきた証拠の用意は万全だった。 「ナターシャちゃん、見て。サンタさんの写真だよ。ナターシャちゃんがプレゼントを喜んでくれたら嬉しいって」 『ワーイ、サンタさんダー!』と歓声をあげ、スマホの画面に 齧りついたナターシャが サンタクロースの写真をズームアップして、その正体に気付くことを危惧していたのに、ナターシャはサンタクロース来訪の証拠に、ほとんど興味を示さなかった。 スマホのサムネイル一覧を ちらりと一瞥したきり、スマホから目を逸らす。 そうしてから、ナターシャは思いがけない言葉を口にした。 ナターシャらしくなく 冷ややかな口調で。 瞬を見ずに、横を向いて。 「ナターシャ、サンタさん、嫌い」 と、ナターシャは言ったのだ。 「え?」 あまりに思いがけなくて、続く言葉が出てこない。 『どうして?』と訊き返すこともできずにいた瞬の手に、ナターシャが ふいに 飛びついてくる。 両手で 瞬の手に強く しがみつき、ナターシャは叫ぶように瞬に尋ねてきた。 「マーマ! マーマはパパが大好きだよね !? 」 「え……? あ、も……もちろん」 もちろん、『もちろん』という答えは嘘ではない。 決して嘘ではなかったが、ナターシャが急に そんなことを尋ねてくる訳が わからなかったので、『もちろん』と答える瞬の声には あまり力がこもっておらず、どこか空虚だった――かもしれない。 その熱のなさが、ナターシャには 空々しく聞こえたのだろうか。 ナターシャの声と言葉には、逆に 力と熱が こもり始めた。 「パパはマーマが大好きなんだよ! すっごく すっごく、とっても とっても大好きなの。パパはマーマがいないと生きてイラレナイって。マーマに会えて、すごくよかったって。マーマと一緒にいるためになら 何でもするって、パパは いつも言ってる。イイコでいれば、マーマはずっと パパとナターシャと一緒にいてくれるから、二人で イイコでいようねって、ナターシャと約束もしてる!」 「そ……そうなの?」 その割りに、氷河は あまりイイコではないような気もしたが、それはナターシャのために言わないでおくことにした。 不審の気配を漂わせた瞬の気のない返事が、ナターシャの心を傷付けた――のかもしれなかった。 「パパはマーマが世界で いちばん好きなんダヨ !! 」 悲鳴のように訴えるナターシャの瞳には、涙すら にじんでいる。 ナターシャが なぜ そこまで必死なのか、瞬には その訳が全く わからなかった。 「あ……でも、氷河が いちばん好きなのは、ナターシャちゃんだよ」 瞬が そう言ったのは、ナターシャは もしかしたら 自分が“パパの いちばん”でないことが嫌なのかもしれないと考えてのことだった。 その推測は的を射ていたのか、それとも まるで見当違いだったのか、 いずれにしても、それはナターシャの望む答えではなかったのだろう。 自分がナターシャの期待に沿えなかったことだけは、瞬にも わかった。 「マーマが いちばんダヨ !! パパには マーマが いちばんなんだカラ!」 ナターシャの声は 怒りの響きさえ含んでいる。 大きな声で、ほとんど怒鳴るように そう言い、ナターシャは 瞬の顔を見上げ、見詰めてきた。 なぜ ナターシャが そんなふうなのか、事情を探るべく、瞬は小さなナターシャの前に しゃがみ込んで、彼女の顔を覗き込もうとしたのである。 だが、瞬が そうする前に、ナターシャは瞬の前で踵を返し、そのまま、だだだだっ と廊下を駆け抜けて、自分の部屋の中に駆け込んでしまった。 いったいナターシャの身に――というより、心に――何が起こったのか。 訳がわからないからといって、放っておけるものではない。 瞬は すぐにナターシャのあとを追ったのだが、ナターシャの部屋のドアは固く閉じられ、内側からロックが掛けられていた。 「ナターシャちゃん、どうしたの? ここを開けて」 瞬が頼んでも、ナターシャからは、 「やっ」 という、つれない返事が返ってくるだけ。 その上、ドアの向こうから聞こえてくるナターシャの『やっ』は、間違いなく涙声。 嬉しそうなナターシャの笑顔で始まる 明るく幸せなクリスマスの朝を期待していただけに――“期待していた”というより、“そうなるものと確信し、疑ってもいなかった”だけに――瞬は困惑し、その頬からは血の気が失せてしまったのである。 呑気に サンタクロースの来訪を知らない設定のパパの役を演じ続けていられなくなったらしい氷河が その場にやってくる。 瞬は 氷河の腕を掴んで、彼を問い質した。 「氷河、まさか、本当にナターシャちゃんに あんなこと言ったわけじゃないよね? 僕が いちばんで ナターシャちゃんが 僕の次だなんて!」 取り乱す人間がいると、その傍にいる人間は冷静になるものである。 氷河の場合、単に 鈍いだけ――という可能性もないではなかったが、ともあれ、瞬に問われた氷河が 慌てる様子を見せなかったのは、紛う方なき事実だった。 「俺は いつも、ナターシャとおまえが いちばん好きで、ナターシャとおまえが同じくらい大切だと言っている。実際、その通りだし」 それは、瞬も同じだった。 むしろ、まだ小さな子供で 戦う術も持たないナターシャを、大人より優先させるのが、この家のルール。 そのルールを破ったことはない。 瞬は、そのつもりだった。 「じゃあ、どうして、ナターシャちゃんが あんなふうに泣いてるの。きっと、僕か氷河のどちらかが 気付かずに ナターシャちゃんを不安にするようなことを言っちゃったんだよ。プレゼントも開けてくれないなんて……」 プレゼントを開けていないということは、プレゼントが気に入らなかったのではない――ということである。 夕べ 眠りに就くまでは、ナターシャは嬉しそうにしていた。 プレゼントが楽しみだとも言っていた。 そうして迎えたクリスマスの朝。 ナターシャは、目覚めてから、この家の住人以外の誰かと接してはいないはずである。 つまり、ナターシャは、眠っているうちに、なぜか サンタクロースが嫌いになり、なぜか 情緒不安定になってしまったのだ。 「僕は部屋に入れてもらえないから……氷河、どうにかして ナターシャちゃんの部屋に入って、何があったのか、ナターシャちゃんに聞いてちょうだい。そして、ナターシャちゃんに、ナターシャちゃんが いちばん好きだって言ってあげて。僕は6番目くらいでいいから」 「なぜ 6番目なんだ。2番目ならまだしも」 氷河の疑念は 至極自然かつ当然のものだったのだが、瞬は なぜ そんなこともわからないのかと焦れて、肩をねじらせた。 「1にナターシャちゃん、2にナターシャちゃん、34がなくて、5にナターシャちゃん。僕は、その次でいいってことだよ」 「たとえ方便でも、そんなことが言えるか。おまえとナターシャが同率首位だ」 「それなら それでもいいけど、とにかくナターシャちゃんが いちばん好きで、いちばん大切だって言ってあげて」 『それなら それでもいい』という投げやりな言い方が、氷河は気に入らなかったらしい。 それでも 氷河が瞬の指示に従ったのは、それがナターシャのためであり、瞬のためでもあると考えたからだったろう。 何より、氷河には、日常生活の場では、瞬の指示に従う習性が植えつけられていたのだ。 |