「ナターシャ、ここを開けてくれ」 ナターシャの部屋をノックして、氷河がナターシャに告げる。 部屋の中から返ってきた返事は、『入っちゃ駄目』でも『入ってもいい』でもなく、 「マーマは? マーマはいない?」 だった。 瞬が その場にいないことを、ナターシャは望んでいるらしい。 そうと察した瞬は、すぐさま、ナターシャの部屋のドアの前から 廊下の端に移動したのである。 そして、廊下の角から 顔だけを覗かせて、ナターシャと氷河のやりとりを見守る。 そんな瞬を横目に見ながら、氷河は、ドアの向こうのナターシャに、 「瞬は、リビングでナターシャを心配している」 と答えた。 「ホント?」 「ああ」 「……」 ドアの向こうで、ナターシャは対応を迷っているようだった。 問答無用で入室拒否ではなく 迷っているということは、瞬が身を隠したのは正解だったということなのだろう。 まもなく ナターシャは、 「パパだけなら、入ってもイイヨ」 と言って、氷河のために 部屋のドアを開けてくれたのである。 ナターシャの入室許可を得て、氷河がナターシャの部屋に入っていく様を見て、瞬は、廊下の端で ひどいショックを受けていた。 マーマは駄目で、パパだけならOKとは。 それは、ナターシャの情緒不安定の原因がナターシャのマーマにあるということなのだろうか。 それとも、その原因が氷河絡みのことで 瞬は無関係だから、当事者である氷河だけが入室可ということなのか。 氷河がナターシャの部屋から出てきてくれれば、その答えも判明する。 リビングルームには戻らず、廊下の端で、瞬はやきもきしながら ナターシャの部屋のドアが もう一度 開く時を待っていた。 それから、およそ15分。 15分という時間が、ナターシャの涙の訳を聞き出す時間として長いのか 短いのか、判断に迷うところだが、ともかく15分後、氷河はナターシャの部屋から出てきた。 廊下の端に心配顔で立っている瞬の姿を認め、ゆっくりと歩み寄ってくる。 「どうだった? ナターシャちゃん、何て言ってた? ナターシャちゃんは、どうして泣いていたの? ナターシャちゃんは、訳を教えてくれた? ナターシャちゃん、元気になった?」 畳みかけるような早口で、 瞬は氷河に尋ねたのだが、氷河の反応は鈍かった。 もっとも、瞬は すぐに、氷河は鈍いのではなく、単に 瞬に与えられる情報を有していないだけなのだという事実を、他ならぬ氷河に知らされることになったのだが。 「とりあえず、おまえに言われた通り、ナターシャに、ナターシャがいちばん好きで大切だと言ってやった」 「うん。そうしたら?」 「そうしたら、ナターシャは――」 「ナターシャちゃんは?」 「突然、『ナターシャは ずっとパパと一緒だよ』と言って、俺にしがみついて、しくしく泣き出した。まるで 訳がわからん」 「……」 『訳がわからん』のは、瞬も一緒である。 『ナターシャは ずっとパパと一緒だよ』とは、どういう意味なのか。 『マーマとは、ずっと一緒にいない』と、ナターシャは言うのか。 なぜ ナターシャは そんなことを言うのか。 そして、いったい何が、ナターシャの中に そんな考えを生ませることになったのだろう? 瞬は決して 自分が“ナターシャのいちばん”になりたいわけではなかった。 “ナターシャのいちばん”は氷河で、そんなナターシャと氷河の時間と暮らしを守るために、自分は二人の側にいるのだと自認していた。 “いちばん”でも、2番でも、6番でも、とにかく 氷河とナターシャの幸福を守ることが自分の務めで、そのために、二人の側にいたい――いなければならないと思っていた。そうあることを望んでいたのである。 それが叶わないことだと、ナターシャは言うのだろうか。 いったい何がどうなれば、そんな事態が引き起こされることになるのだろう? 氷河は、彼がナターシャを いちばん好きで大切に思っている事実を、ナターシャに告げた。 当然、ナターシャは その事実を喜び、これまで 何らかの不安を抱いていたにしても、その不安を忘れて心を安んじることになったはず。 だというのに、ナターシャは、逆に更に感情を乱すことになったらしい。 自分が 自分の愛する人に愛されているという事実以上に、人間の心を安定させることはないと思うのに。 ナターシャの心の中に どんな嵐が吹き荒れているのかが、瞬には 本当に、全く、まるで わからなかったのである。 そして、ナターシャの心がわからないことが、瞬自身の胸の中にも 大きな嵐を巻き起こした。 「こういう時は――」 こういう時は、あれに頼るしかない。 瞬は、速やかに、次の対応に取りかかったのである。 自分の力だけでは乗り越えることが困難な障害に出会った時に、人間が頼るもの。 それは、その人間の境遇、置かれた立場、抱いている価値観によって、それぞれに異なるものだろうが、アテナの聖闘士の場合、それは“あれ”しかなかった。 |