若い力






屠蘇は、一年間の邪気を払い 長寿を願って正月に飲む酒である。
数種類の薬草を 赤酒や日本酒に浸して作る屠蘇は、正月用のカクテルと言えないこともない。
屠蘇の風習のことを考えれば、正月にバーが休業というのは、クリスマスに ケーキ屋が休み、大晦日に 蕎麦屋が休むようなものなのかもしれなかった。
だが、今年は蘭子の計らいで、大晦日と正月三が日は氷河の店は休業。
昨年までと違って、今年は(今季はと言うべきか)ナターシャもいることであるし、氷河は 蘭子の厚意を有難く受け入れることにしたらしかった。

「大晦日の夜から初詣に出る人もいるでしょうし、年末年始って、考えようによっては バーの書き入れ時なんじゃないの? 特に、氷河のお店みたいに、初詣で賑わう お寺が近所にあるお店は」
蘭子が“いい男”に甘いことは知っているが、彼女が優しすぎて、さすがに心苦しさを覚える。
氷河の店の経営状況は良好らしいが、氷河と蘭子が その気になれば、それは もっと良好になるということを知っているだけに、瞬は心配でならなかった。
氷河は、彼女の厚意を素直に受け取らないのは 逆に蘭子に悪いという考えでいるようだったが。

「屠蘇は、健康にはいいだろうし 縁起もいいんだろうが、バーで客に出すには不味すぎる。新年を寿ぐ美味い酒というなら、ネクタルの方が 適しているだろうな」
ギリシャの神々を不老不死にする神酒ネクタル。
もちろん 氷河が言っているのは 本物のネクタルではなく、それを語源とした果肉飲料ネクター、及び それを用いて作るカクテルのことである。
ちなみに、現代の日本の規格では、“ネクター”は、オレンジなら50パーセント以上、桃やリンゴなら30パーセント以上の果肉を含む飲料と定められていて、その基準に満たないものは“果汁入り飲料”と表示しなければならないのだそうだった。
――と、瞬は 氷河から聞いていた。

「正月に飲むなら、不老長寿の象徴である桃の酒が適当だろうな。桃の果肉とスパークリングワインで作る ベリーニあたりか。あれは 綺麗なピンク色で、甘いし、おまえでも飲める」
「フローチョージュって、ナニー?」
膝の上に広げていた『にほんごで あそぼ』の絵本から顔を上げて、ナターシャが尋ねてくる。
最近 ナターシャは、難しくて新しい日本語を覚えるのに夢中だった。
「いつまでも若くて元気で長生きだということだ」
「パパとマーマは 最初からフローチョージュでショ?」
「それは そうだ」

ナターシャの知的好奇心が旺盛なことを、瞬は もちろん、氷河も大いに歓迎していた。
なにしろ、以前なら、
「瞬は、若くて元気なだけでなく、綺麗だし」
などと言おうものなら、素直でない瞬から、『そんなこと言っても、何も出ません』くらいの憎まれ口が返ってきたものだったが、今は違う。
そんな素直でない物言いを ナターシャに覚えさせたくない瞬は、黙って氷河の称賛を受け入れてくれるのだ。
少なくともナターシャの前では。

「パパも、若くて元気で綺麗だヨネ」
「ナターシャのパパだから、それは当然だ」
「ウン。トーゼンダー!」
ナターシャのパパとマーマは、若くて元気で綺麗で優しく強くなければならないのである。
親を見て、子供は育つものだから。
そして、親を見て、子供は自分の可能性を判断するものだから。
今では 氷河は 瞬の前で 好きなだけ瞬を褒めることができる。
それは、ナターシャが氷河にもたらしてくれた素晴らしい恩恵の一つだった。

「ベリーニは、桃のシロップやネクターでも作ることはできるが、やはり生の桃のピューレで作ったものが いちばん美味い。シロップやネクターでは、今ひとつコクが足りないんだ。残念ながら、生の桃は冬には手に入らない。やはり正月は、バーは休みでいいだろう」
ナターシャが来る前なら、『そんな屁理屈!』と反論が返ってきていただろう。
あるいは、『蘭子さんの厚意に甘えすぎるのは よくないよ』あたりの言葉が。
だが、今は、
「そうだね。お正月は やっぱり、ナターシャちゃんと一緒に過ごすのがいいよね」
である。
瞬自身も、例年は家族のいる他の医師の代わりに 正月は務めに出ていたのだが、今年は休暇を取っていた。
親は子を育てるが、同時に子によって育てられる。
ナターシャの登場によって、瞬は、以前とは比べ物にならないほど 素直な大人になっていた。

「ソーダヨ! お正月は お休みがいいヨ! 今日は、パパとマーマは、ナターシャと一緒に うんと可愛い おせち料理を作るんダヨ!」
もともと戦いが好きではない瞬には、バトルで人を傷付けるより、人間を育てる仕事の方が はるかに楽しく、嬉しく、やり甲斐のある仕事。
「そうだね。今日は、ナターシャちゃんは、僕と氷河と一緒に うんと可愛い おせち料理を作るんだよね」
ナターシャの言葉を そのまま繰り返すことで、瞬が蘭子の厚意に甘える決意を固める。
瞬の覚悟の弁を聞いて、ナターシャは明るい笑顔になった。

「パパ、見テー。これが、パパとマーマとナターシャの うんと可愛い おせち料理の完成予定図ダヨ。マーマとナターシャとで考えたの。ちゃんと計画を立ててから、材料を買いに行くんダヨ。イキアタリバッタリは、バッタリしちゃうからダメなんだっテ」
覚えたばかりの 言葉を使えて、ナターシャは得意顔。
ナターシャの差し出した、パパとマーマとナターシャの うんと可愛い おせち料理の完成予定図は、なかなかの力作だった。
『くりきんとんで クマさん。耳は黒豆。カマボコでウサギさん。サーモンでバラの花。スナップエンドウで葉っぱ。数の子でヒヨコ、目は黒ゴマ。海老と卵とアボカドで、お寿司のケーキ』といった調子で、ナターシャの絵に 瞬が説明を付している。
瞬がついていれば、ナターシャはアクエリアスの氷河のように“イキアタリバッタリ”の大人にはならないだろう。
「これは確かに、うんと可愛い」
ナターシャの計画性と画才を、氷河は素直に喜んだ。






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