計画を立てるのは、実行するため。 三時のおやつを済ませたナターシャと氷河と瞬は、今年最後の お散歩を兼ねて、おせち料理の材料を調達に出ることにした。 大晦日の午後。 4時を過ぎると、外は早くも夕暮れの気配を帯び始めている。 風は さほど強くないが、気温は5度に届いていない。 年末年始の旅行や帰省で 東京脱出組が多いのか、マンション周辺の通りにも公園にも人影は少なかった。 おかげで、公園の遊歩道は、三人で手を繋いで歩いても 誰の邪魔にもならない。 最近の お気に入りの 白い ふわふわのイヤーマフ。 鼻の頭を少し赤くして、右手でマーマ、左手でパパと手を繋いだナターシャは ご機嫌だった。 「こういうの、“リョウテにハナ”って言うんダヨ。『ナターシャちゃんは いつもリョウテにハナでいいわね』って、蘭子ママが言ってた!」 よその人にぶつかることを気にせずに パパとマーマと手を繋いで歩くことができ、その上、覚えたての難しい言葉を披露できる。 ナターシャの ご機嫌は、至極 当然のことだったろう。 「僕たちにとっては、ナターシャちゃんが いちばん可愛い お花だよ」 瞬が そう言うと、ナターシャは、 「みんな、おハナーっ!」 と歓声をあげて、その場で くるりとバック宙――後方宙返りをした。 もちろん それは氷河と瞬のアシストがあるからできることで、後方宙返りというより、見えない鉄棒で逆上がりをしているようなものなのだが、ナターシャの身が軽く、運動神経がいいのは 紛う方ない事実。 かてて加えて、地球の重力に抵抗することへの恐怖心が、ナターシャには ほとんどないようだった。 「ナターシャちゃん、体操を習おうか? それとも、ダンスやフィギュアスケートがいいかな。ナターシャちゃんなら、すぐに上手になるよ」 「タイソー?」 「うん。あ、別に体操でなくても――ナターシャちゃん、来年、したいことや行きたいところはない?」 「ライネン したいコトや行きたいトコロ?」 「そう。『一年の計は元旦にあり』って言ってね。一年の計画や目標は、一年の最初に考えておくのが いいんだよ。みんな、お正月に 今年の目標を立てるの。『今年は毎日 早起きするぞー』とか、『ダイエットをするぞー』とか、『ピアノを弾けるようになりたいー』とか。何でもいいんだよ。ナターシャちゃんの 来年の目標」 “10で神童、15で才子、20歳過ぎれば ただの人”というのは、多くの人間が通る道だろうが、幼い子供が無限の可能性を秘めているのは事実だろう。 適切な時期に、その才能を伸ばす機会を与えられなかった子供が、いつのまにか“ただの人”になってしまうのだ。 親の贔屓目を抜きにして見ても、多くの子供がそうであるように、今のナターシャは才能と可能性に あふれていた。 瞬は、その才能と可能性の芽を摘むようなことだけはしたくなかったのである。 だから、瞬はナターシャに問うたのだが、ナターシャの答えは思いがけないものだった。 「ンー。それなら、ナターシャ、笛が吹けるようになりたいナ」 と、彼女は答えてきたのだ。 「笛? ピアノやバイオリンじゃなく、笛を習いたいの?」 「うん。公園で、時々、よその おじちゃんが吹いてるの。ぴよーん ぴよーんって、すごく あったかい気持ちになるの」 「笛で?」 瞬は、訝って、氷河と顔を見合わせた。 光が丘公園は、敷地面積が広大で、楽器の演奏を禁止していないので、園内で楽器の練習をしている人間を よく見掛ける。 練習用のスタジオを借りる余裕のない若年層のトランペッターや ギターやベースの奏者が多いが、時には、ビオラやバイオリンを持ち込んで練習しているオーケストラのメンバーらしき者を見ることもあった。 「サックスやトランペットかな?」 「サックスやトランペットで、ぴよーん ぴよーんはないだろう」 「ケヤキ広場を ぐるりとまわって通って行こう! 今日も おじちゃんが練習しに来ててるかもシレナイ」 自分が吹けるようになりたい笛が どんなに素敵なものなのかを、パパとマーマは知らない。 その事実に焦れたのか、あるいは、パパとマーマが知らないことを自分が知っているということを得意に思ったのか、ナターシャが 氷河たちと繋いでいた手を離して、遊歩道を走り出す。 西側の遊歩道から けやき広場に向かう横道が出ているT字路で、いったん立ち止まり、ナターシャは 氷河と瞬に向かって大きく手を振った。 「今日も来てルーっ! 聞こえルーっ!」 大声で そう言って、ナターシャは けやき広場に続く横道に 入っていった。 確かに、ナターシャの言う通り、ぴよーんぴよーんという細い音が聞こえる。 そして、甘い匂い。 音より 匂いで、氷河と瞬は、ナターシャが吹けるようになりたい笛の正体が わかったのである。 それは、石焼き芋の移動販売の小型トラックが運んでくる笛。 石焼き芋の窯に取り付けてある笛が出す音だった。 「なるほど。これは確かにあったかい気持ちになるな」 氷河と瞬がT字路の角に到着すると、それを待っていたナターシャが、今度は、 「アッチダヨー!」 と、けやき広場の向こうを指差して、氷河と瞬を先導するように、また駆け出す。 魅惑の甘い笛の音を運んでくるトラックは、けやき広場の向こうにある体育館の方にいるらしい。 駆け出したナターシャのあとを、氷河と瞬は、そういうことかと笑いながら、ゆっくりと追いかけた。 緩やかな楕円形を描いている遊歩道を抜け、けやき広場に出たところで、氷河と瞬は異変に気付いたのである。 けやき広場は、その名の通り、周囲に ケヤキの木が建ち並んでいる広場。 “広場”であるから、当然 見晴らしがいい。 広場の向こう側に石焼き芋の移動販売のトラックが停車しているのも、しっかり見てとれた。 ナターシャは、もちろん、そのトラックに向かって広場を突っ切り 直進しただろう。 そのはずである。 しかし、氷河と瞬のいる場所から 石焼き芋屋のトラックまで、その間のどこにもナターシャの姿はなかったのだ。 「ナターシャちゃん !? 」 広場には、ナターシャの姿を隠すような大きな障害物は何もない。 ナターシャが パパとマーマを驚かすために 自分の意思で隠れんぼを始めたのだとしても、氷河と瞬の視界からナターシャの姿が消えていたのは 10秒に満たない時間。光速移動のできる聖闘士なら ともかく、ナターシャが二人の黄金聖闘士の前から これほど完璧に隠れることは不可能である。 「ナターシャちゃん……どこに……」 「瞬っ!」 ナターシャの姿を求めて 周囲を見渡した瞬の許に、氷河の鋭い声が飛んでくる。 その声の意味するところは、瞬にも すぐにわかった。 ナターシャの危機を感じ取れるのは、自分がナターシャの父親だからだと 氷河は主張するが、事実はそうではない。 それは、氷河が聖闘士だから。 そして、ナターシャに危害を加えようとする者が、普通の人間ではないからなのだ。 氷河は、今、それを感じ取っていた。 瞬も、もちろん。 冷たい闇の気配――死の気配がナターシャの周囲にある。 二人に わかったのは、ナターシャの居場所ではなく、ナターシャの周囲にあるものの気配だった。 氷河と瞬は青ざめたのである。 ナターシャの側に行こうとしたのだが、場所が特定できない――氷河と瞬には、ナターシャの居場所が わからなかった。 居場所が わからなければ、当然、ナターシャの許に行って、ナターシャを守ることもできない。 ナターシャが この地上世界にいるのなら、たとえ それが地球の裏側であっても、絶対に その場に行けるはず。 それができるのが黄金聖闘士だというのに。 いったいナターシャはどこにいるのか――どこに連れ去られたのか。 黄金聖闘士にも把握できない場所。 そして、ナターシャの周囲にある死の気配。 その場所を特定できないからこそ、氷河と瞬には、その場所が わかったのである。 「冥界…… !? 」 だが、なぜ そんなことになるのかが――なったのかが――わからない。 顔の無い者が ハーデスの力と関わりがあることは察していた。 デスマスクは、破壊された黄泉比良坂の入り口で 顔の無い者の一味に会ったと言っていた。 ハーデスと顔の無い者のギルドの間に、何らかの関わりがあるのは事実なのだろう。 しかし、そうなのだとしても。 暗殺者だった頃の記憶を失っているナターシャを、なぜ わざわざ冥界に さらう必要があるのか。 ギルドの裏切者として ナターシャを粛清するためだとしても、なぜ わざわざ冥界で そんなことをしなければならないのか。 今は 非力な子供にすぎないナターシャは そんな手の込んだことをしなくても、顔の無い者の一味になら 倒すことは容易なはずだった。 実際、以前は、顔の無い者は、日光で(つまりは地上世界で)それを為そうとしたではないか。 だというのに、今回は冥界。 その場所を明確に把握することはできないが、ナターシャが生きていることは 感じ取れる。 粛清が目的なのだとしたら、それは奇妙なことだった。 何もかもが奇妙で、理屈に合わない。 今の氷河と瞬に わかるのは、ナターシャが 死の力の影響を強く受ける どこかにいるということと、ナターシャが生きていること。 氷河と瞬には、それだけは、はっきりと感じ取ることができた――それしか わからなかった。 |