誘拐犯は、やはり先代の蟹座の黄金聖闘士デストールだったらしい。
今は 半壊状態で瓦礫の山になっている黄泉比良坂。
瞬と氷河が そこでナターシャの気配を探そうとするより先に、ナターシャの歓声が 二人を出迎えてくれた。
ナターシャはまだ、彼女のパパとマーマが そこに来たことには気付いていないのだろう。
黄泉比良坂に響くナターシャの歓声は、まるで遊園地のメリーゴーラウンドに乗っている時のそれ(ちなみに、ナターシャはまだ絶叫マシンの類には乗せられない)。
ナターシャの楽しげな声から察するに、ナターシャは 危険な目には会っていないようなのだが、そもそもナターシャには“冥界にいること”が 既に危険この上ないことなのだ。
瞬と氷河は、ナターシャの生存を確認できたくらいのことでは、心を安んじることはできなかった。

「ナターシャ! どこだ!」
「デストールさんっ! どこですかっ!」
ナターシャの無事な姿を見るまでは安心できない。
氷河と瞬が、ほとんど叫ぶように ナターシャと 彼女を誘拐した犯罪者の名を呼ぶと、黄泉比良坂の上空から、
「パパ! マーマ!」
氷河と瞬に答えるナターシャの声が響いてきた。

(空……?)
黄泉比良坂の上に広がる空間は、はたして“空”と呼んでいいものなのか。
太陽も 星も 月もない、その空間の正しい呼称を、瞬は知らなかった。
だが、ともかく、“空”と呼ぶしかない その空間のどこかに、ナターシャはいるらしい。
瞬が、視線を“空”に向けるのと、
「ぎゃおーん!」
という獰猛な獣の雄叫びのようなものが 辺りに響き渡るのが ほぼ同時。
ナターシャは、黄泉比良坂の空にいた。
何やら巨大な乗り物に乗って。
ナターシャが乗っている乗り物に、瞬は見覚えがあった。

ナターシャを乗せて“空”を駆けていたらしい巨大な獣が、瞬たちの前方100メートルほどの場所に着地し、そこから どどどどどっと、途轍もない勢いで 瞬たちのいる方に駆けてくる。
瞬にぶつかる直前で急ブレーキをかけたそれは、
「きゅいーん」
と鳴いて、瞬の目の前で どすんどかんと“伏せ”の態勢になった。

「ゴ……ゴールディちゃん !? 」
それは、先々代の獅子座の黄金聖闘士カイザーの飼い猫ならぬ飼い獅子。
尻尾まで入れると全長10メートルを軽くオーバーする巨大な獅子だった。
冥闘士なら10人20人は 朝飯前で――むしろ、朝飯用に―― 一撃で倒し、アテナの聖闘士でさえ白銀レベルの者なら 容易に噛みちぎってしまうほどの実力の持ち主。
仁力勇を備えたレオのカイザーに欠落している“知”を担っていたゴールディは、前聖戦時、瞬と出会った際、『(食べて)よし』というカイザーの指示を無視して 瞬に懐き、カイザーを激怒させてしまったのだが、ゴールディは その時のことを いまだに忘れていないらしい。

「きゅうぅぅ~ん」
地面に ぺたりと腹這いになったゴールディの尻尾は、二百数十年振りの瞬との再会が嬉しくてならないらしく せわしなく跳ねまわり、二百数十年振りの瞬との再会に感激して、その瞳は涙で潤んでいた。
「ど……どうして、ゴールディちゃんが ここにいるの?」
突然の邂逅に戸惑いつつ、瞬が その手でゴールディの額に触れる。
瞬の手の感触を身悶えして喜び、ゴールディはは ごろごろと盛大に喉を鳴らし始めた。

ナターシャは、そんなゴールディの背に乗って(というより、首にしがみついて)いる。
怪我をしている様子はない。
瞬は まず、その事実を確認して、ほっと安堵の息を洩らした。
ゴールディが いかに賢い猫であっても、彼に事情を説明させるのは無理である。
事情はナターシャに聞くしかないだろうと 瞬が思ったところに、
「ヤッホー」
という、実に馬鹿げた挨拶(?)と共に姿を現わしたのは、おそらく この誘拐事件の主犯であるところのキャンサーのデストールだった。
その後ろには、先々代の獅子座の黄金聖闘士カイザーが立っている。
カイザーは 馬鹿げた挨拶すらせず、ふてくさった様子で そっぽを向いていたが、デストールは、黄金聖闘士の目をもってしても、悪気があるのか ないのかの判別ができない笑顔を、その顔に貼りつけていた。

「デストールさんっ!」
自分に悪気があるのか ないのか、自分でも わからなくなっているのが デストールという男である。
それは、瞬も承知していた。
が、承知しているからこそ――悪気の有無に かかわらず 幼児誘拐は重罪であり、悪気の有無は ただ罰の軽重を変える要因にすぎないのだということを デストールに自覚させるため、意識して険しい声で、瞬は彼を問い質したのである。
「これは どういうことですかっ !? 」

乙女座の黄金聖闘士の小宇宙は強大だが、それにも増して、我が子を守ろうとする親の力は強大。
その力を見極められないはずはないのに、デストールは、瞬の剣幕に怯む様子も見せず、飄々(ひょうひょう)とした態度を崩さなかった。
「どういうことも こういうこともないわ。見ての通り、こういうことよ。今月は満月でしょ。満月には、霊的な力を増幅する力があって、満月の夜には あの世と この世の境が曖昧になるのよ。子供や動物は 特に、魂が世界に固着されていなくて 自由だから」
「そんなことは聞いていません!」
「あら、何だかご機嫌斜めみたいね。全然 迫力ないし、似合わないから、そんな顔するのは やめなさい」
「迫力がない?」

迫力はなくても、力はある。
瞬が小宇宙を燃やすと、デストールは、(もう死んでいるのに)大仰な所作で震え上がってみせた。
「おー、恐い恐い。迫力なさすぎて、ものすごく恐いわあ」
どう考えても、デストールは瞬を舐めていた――と言うより、見透かしていた。
どんなに腹を立てていても、瞬には 同胞である黄金聖闘士を攻撃することはできない。
デストールは、そんな瞬の性格を しっかり把握しているのだ。
事実 その通りだったので、瞬が唇を引き結ぶ。
瞬を(一応)やりこめたことで気を良くしたのか、デストールは やっと、瞬に求められたものを 瞬に手渡してきた。
つまり、“これは どういうことなのか”、その辺りの事情についての説明を。

「うーん。だから、ほら、こないだ、アタシが一輝に会いたくて、ちょっとアンタたちの娘を 黄泉比良坂に ご招待したことがあったじゃない? その話をカイザーにしたら、一緒に聞いてたゴールディが、自分もアンタに会いたいって騒ぎ出したのよ。ぎゃーぎゃー吠えたり、みゃあみゃあ泣いたり、でかい図体で ごろごろ寝転がって駄々をこねたり、そりゃあ 大変だったんだから」
「ゴールディちゃんが……」
「カイザーは焼きもち焼きだから、絶対に会わせるもんかって言い張ってたんだけど、そしたら、ゴールディがハンガーストライキを始めちゃってねえ」
「死んだ人間が――いや、猫か――死んだ猫がハンストを始めたところで、何の問題もないだろう。もう死んでるんだから、餓死することもない」

ゴールディの背からナターシャを下ろした氷河が、彼にしては 鋭い指摘を口にする。
そもそも死人(死猫)にハンガーストライキなど できるものなのか。
氷河の指摘を受けて、デストールは、全く粋でない男を見る目を 氷河に投げてきた。
「微妙で繊細な(猫の)オトコゴコロが わからない野暮天ね。アンタの言うことは、詰まんない ただの理屈。実際 ゴールディは どんどん痩せて、毛並みの艶もなくなってったんだから、こういうことは理屈で割り切れるもんじゃないのよ。それで、嫉妬深いカイザーも、さすがに意地を張っていられなくなって、アタシに泣きついてきたわけ」

氷河に対しても、カイザーに対しても、デストールは言いたい放題である。
それでも カイザーは、苦々しげな表情のまま、沈黙を保ち続けていた。
おそらく、デストールの言うことは 否定の仕様もない、ただの事実――ということなのだろう。

「アタシは一応、それは無理だって言ってやったのよ。アンドロメダ――あ、今はバルゴなんだっけ。アンタは 今は聖域じゃなく、チンケな家に住んでて、ゴールディが訪ねていったって、居る場所もない。そもそもゴールディの巨体がアンタんちの玄関のドアを通れるかどうかだって怪しいもんだって」
それ以前に、死んだ者がどうやって、生きている者が住むマンションを“訪ねる”というのか。
もし“訪ねる”ことが可能だったとしても、その客人(客猫)は、つまりは幽霊。
どう歓待すればいいのか、生きている人間には わからない。

「それでも、ゴールディは納得してくれなくてねー。いつまでも めそめそ がおがお うるさく泣き続ける。アタシは優しい男だから、ほっとけなくて、ゴールディをチンケな家に送り込むんじゃなく、広い冥界に アンタを呼びつける方向で 対処してやることにしたの。でも、普通に 冥界に来るように言ったって、アンタは来ないでしょ。それで、まず ナターシャに ここに来てもらったわけ。で、めでたく、アンタを釣り上げることができた、と」
「デストールさんっ」
すべてがデストールの計画通りに運んだ――ということなのだろう。
得意顔のデストールを、瞬は怒鳴りつけた。

『子供や動物は 魂が世界に固着されておらず、自由』と デストールは言っていたが、であれば 尚更、瞬は、ナターシャが冥界に来ることを危険なことだと思わないわけにはいかなかったのである。
ナターシャは 聖闘士ではない。
ナターシャは 普通の人間なのだ。普通の人間のままにしておかなければならない。
瞬は、デストールの無思慮な行動を責め、なじろうとしたのである。
だが。
「きゅうぅぅ~ん」
ゴールディの切なげな声が、瞬に そうさせてくれなかった。

デストールの無思慮な行動の主原因はゴールディなのだ。
デストールを責めることは、ゴールディを責めること。
そして、ゴールディは、ただ 懐かしい古い友人に会いたかっただけなのである。
瞬には、ゴールディを責めることはできなかった。
とはいえ、これ以上 ナターシャが冥界の空気に慣れ親しむ事態は避けたい――避けなければならない。
瞬は、氷河の腕に抱きかかえられているナターシャの方に向き直った。






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