「じゃあね。ナターシャちゃん。あと1時間だけ。あと1時間だけ、ゴールディちゃんと遊んでいてもいいよ。その代わり、1時間 経ったら、いい子で お家に帰るって、約束して」 そういった外野の大人たちの あれこれは さておいて、それが 瞬がナターシャに許すことのできる ぎりぎりのラインだった。 パパとマーマは いつも自分の安全と幸福を考えていると信じてくれているナターシャは、少し残念そうにではあったが、瞬の提示した妥協案を受け入れてくれたのである。 そうと決まれば、与えられた時間を有効活用しなければならない。 ナターシャは 早速 ゴールディの背に飛び乗り、再び黄泉比良坂を 駆け回り始めた。 まだ遊園地の絶叫マシンに乗ることのできないナターシャには、それは、氷河の過激なタカイタカイ以上にスリリングで楽しい遊戯であるらしい。 ナターシャが喜ぶと瞬も喜ぶことが感じ取れるのか、ゴールディはナターシャに大サービス。 地を駆け、空を飛び、宙返りをしたり、猫パンチを繰り出したりと、あらゆる芸、大技の大盤振る舞い。 ナターシャは、そのたびに歓声を上げて大興奮していた。 「マーマ! ゴールディちゃんの猫パンチ、すごいんダヨ! 大きな岩も、簡単に粉々にしちゃうんダヨ!」 「ナターシャ、ゴールディちゃんの尻尾で 縄跳び50回 飛べたヨ!」 「ゴールディちゃん、右手でも左手でも おいでおいで できるノ。スゴーイ!」 一つの遊戯を堪能し終えるたび、頬を上気させたナターシャが ゴールディと共に 瞬の許に報告にやってくるのは、瞬に、『すごいね!』『よかったね!』と褒めてもらい、ゴールディの頭や背を撫でてもらうため。 ナターシャは ゴールディが欲しているものが何なのかを正しく察知しており、ナターシャの心の中にはゴールディを喜ばせてやりたいという思いがあるらしい。 ナターシャ自身にも、マーマの目が自分に向いていることを確認したいという子供らしい承認欲求はあるのだろう。 しかし ナターシャは それ以上に、瞬に頭を撫でてもらったゴールディが身悶えして喜び、とろけるように幸せそうな目をする様を見るのが嬉しくてならないらしい。 ゴールディが嬉しいことが嬉しいナターシャと、ナターシャを楽しませることが 瞬を嬉しがらせることだと知っているゴールディ。 そんな二人(一人と一頭)の様子が微笑ましくて、瞬は 二人(一人と一頭)に、約束の時間が過ぎても約束の時間が過ぎたことを告げることができなかったのである。 ナターシャに『1時間 経ったよ』と言えずにいる瞬の代わりに、 「ナターシャ。約束の時間だ」 と、楽しい時間の終わりを宣告したのは 氷河だった。 それまで幸福な子猫のような目をしていたゴールディが、凶悪な獅子の目で氷河を睨む。 その心に 素直な喜びだけを抱いている可愛らしい女の子と楽しく遊び、大好きな瞬に 優しく撫でてもらえる幸福の時に 水を差してくる男に、ゴールディが好意を抱けるはずがない。 目に敵意をたたえ、氷河に牙を剥くゴールディを諭してくれたのは、意外や この誘拐事件の主犯である先代蟹座の黄金聖闘士。 「ゴールディ。さよならの時間よ。わかるでしょ」 瞬との再会の場を設けてくれたデストールに そう言われると、ゴールディは大きな身体を 小さく丸めて めそめそし始めた。 「きゅうん、きゅうん」 ゴールディに そんな悲しげな声を洩らされると、瞬も つらかったのである。 生まれて 間もない頃に母を失ったゴールディの悲しげな様子は、どこかの誰かと重なる。 ゴールディが 本当は何を欲しているのか。 青銅聖闘士だった頃には わからなかったことが、今の瞬には わかっていた。 だが、それが わかっているからこそ――瞬はナターシャのマーマだから――今の瞬には 優柔不断は許されないのだ。 大きな身体を小さく丸め、全身で瞬と別れたくないと訴えているゴールディの瞳を覗き込む。 「ゴールディちゃん。250年以上、会えなかったんだ。今度は そんなに待たずに、また会えるよ。人は誰だって……聖闘士だって、いつかは死ぬ。そうしたら、また一緒に遊ぼうね」 瞬が そう言って ゴールディの背を撫でると、それまで めそめそして地に伏していたゴールディは ふいに その場に立ち上がった。 そして、瞬に向かって ぶるぶると大きく横に頭を振る。 「ゴールディちゃん?」 瞬を見詰めるゴールディの目は、今は、敵に対峙する獰猛な獣のそれではなく、母の温もりを求める寂しい子供の それでもなく、強く毅然とした戦士のそれだった。 ナターシャが 瞬の右手に 両腕で しがみつき、ゴールディの気持ちを瞬に伝えてくれた。 「今度会うのは、できるだけ あとの方がいいって」 「え……」 ナターシャには、ゴールディの心が 本当にわかるらしい。 もう一度 ゴールディの澄んで力強い瞳を見詰め、瞬は、ナターシャが知らせてくれたゴールディの心が 真実のものだということを知ったのである。 「ゴールディちゃん……」 強く優しい心を持った、美しく気高い獅子。 瞬は、その手に 初めて 慈しみではなく尊敬の念を込めて、ゴールディの額に触れたのである。 カイザーが――彼も今は、焼きもち焼きのゴールディの飼い主の眼差しではなく、アテナの聖闘士の眼差しを、瞬に向けてきた。 そして、アテナの聖闘士である瞬に言う。 「生き急いではならん。おまえはアテナの聖闘士。可能な限り、生き延び、生き抜き、地上の平和のために戦え。おまえの命と力は、そのためにある」 「カイザーさん……」 カイザーは おそらく、ナターシャのように ゴールディの心がわかるのではなく、ゴールディと自分の思いが同じだということを確信できているのだろう。 「瞬が来ると、ゴールディがアンタの相手をしてくれなくなるもんね」 デストールの茶々を無視して、カイザーは、彼とゴールディの心を伝えてきた。 「おまえが次に ここに来るのは、おまえが 己れのすべての力を使って、地上の平和を守り抜いたと、自信をもって 俺とゴールディに報告ができるほど、自分の生を生き抜いてからにしろ。ゴールディは そう言っている」 多少 焼きもち焼きでも、そして、たとえ死んでもアテナの聖闘士。 カイザーの その言葉に、瞬は身が引き締まる思いがしたのである。 「はい。僕は あなたとゴールディちゃんがそうしたように、アテナの聖闘士としての戦いを戦い抜き、自分の命を最後まで生き抜いてから、ここに来ます」 「うむ」 「さようなら、ゴールディちゃん。またいつか」 今はカイザーの傍らに雄々しく立つゴールディに、しばしの別れを告げる。 「ゴールディちゃん、バイバイ、マタネー」 ナターシャも 駄々はこねず、大人しく氷河の腕に抱き上げられてくれた。 ゴールディが 切なげに潤んだ瞳で瞬とナターシャを見詰める。 そんなゴールディとて、カイザーと共に地上の平和を守るための戦いを戦い抜いた希望の闘士。 瞬たちを見詰めるゴールディの瞳は、最後は毅然としていた。 |