青銅聖闘士だった頃の――甘いことばかり言っていた瞬をしか知らないアフロディーテが、思いがけない瞬の厳しさに 僅かに たじろぎ、それきり 口をつぐむ。
そんなアフロディーテに代わって、ためらいがちに 瞬に尋ねてきたのはナターシャだった。
パパ以外の人には いつも穏やかで優しいマーマが アフロディーテに 冷たい攻撃を仕掛けていることを感じ取って、ナターシャは少なからず驚いているらしい。
ナターシャは、自分が いい子ならしないことをしたと自覚し、悪い子はマーマに叱られるものだということを知っていたから。

「マーマ……。マーマは ナターシャのこと、叱らないの? ナターシャ、アフロディーテおじちゃんのこと、嫌いって言ったのに」
『嫌い』と言われることより『アフロディーテおじちゃん』と呼ばれることの方が気に障るのか、アフロディーテが 僅かに口許を引きつらせる。
否、もしかしたらアフロディーテは、『おじちゃん』と呼ばれたことがなく、耳慣れない呼称で呼ばれることが、彼の心臓に負担をかけているのかもしれない。
瞬は、だが、アフロディーテの心臓の心配より、ナターシャの躾の方を優先させた。
氷河の腕に掴まったまま、戸惑いの表情を浮かべているナターシャを見詰め、言う。

「もちろん、叱るよ。どんなに強い人でも、他の人の気持ちを気にしていないように見える人でも、誰かに『嫌い』って言われたら、悲しい気持ちになるんだよ。だから、その言葉はできるだけ使わない方がいい。ナターシャちゃんも、アフロディーテおじちゃんに『嫌い』って言われて、悲しかったでしょう?」
「ウン……」
虚勢を張ることをしないナターシャは、素直に 正直に その事実を認めた。
しかし、ナターシャは、正直であるがゆえに、優しい嘘をつくこともできない。
「でも、ナターシャ、アフロディーテおじちゃんのこと、好きって言えないヨ」
瞬も、ナターシャは今はまだ それでいいと思っていた。

「『好き』っていう言葉も、本当に好きな人にだけ言うようにしなきゃならない言葉だよ。好きじゃない人に、無理に言う必要はない」
「じゃあ、マーマは アフロディーテおじちゃんのこと、本当に好きナノ?」
それが、ナターシャには不思議なことであるらしい。
ナターシャの大好きなマーマが、ナターシャの嫌いな人――好きではない人――を好きでいることが。
ナターシャは、自分の好きな人は、自分と同じものを嫌い、自分と同じものを好きでいるものだと 思っていたのかもしれなかった。
そんなナターシャに、瞬は笑って、
「そうだよ」
と答えた。

「アフロディーテおじちゃんは、ナターシャをいじめたノニ? マーマはナターシャの味方じゃないノ?」
「僕は、ナターシャちゃんの味方だよ」
「ダッタラ――」
『同じものを嫌って』と言うのは いけないこと。
それはナターシャにも わかっている――いけないことなのだと、感じているのだろう。
『同じものを嫌って』とは、ナターシャは言わなかった。
それは ナターシャが素直で善良な心を持っているからで、その事実が、瞬は嬉しかったのである。

「味方っていうのは、そういうものじゃないんだよ。いつもナターシャちゃんが正しいって認めてくれる人が ナターシャちゃんの味方なんじゃないの。ナターシャちゃんの味方っていうのは、ナターシャちゃんに いい子でいてほしいと願う人のことだよ。だから、ナターシャちゃんを叱ることもあるの」
完全に納得しきれていないらしいナターシャが、瞬の顔を じっと見詰めている。
ナターシャは、マーマの言うことを ちゃんと理解したいと思っている。
その希望を叶える術を、瞬は知っていた。
ナターシャの大好きなパパを引き合いに出せばいい。

「自転車も走っている歩道を、ナターシャちゃんが よそ見をしながら駆けていたら、氷河はナターシャちゃんを叱るでしょう? ナターシャちゃんは、氷河がナターシャちゃんの味方じゃないと思うの?」
「ウウン……思わナイ」
そう答えると、ナターシャは少し身体をよじって、氷河の顔を仰ぎ見た。
瞬がナターシャを諭している時、氷河は絶対に口を挟んでこない。
それは、パパがマーマの味方で、マーマが正しいと信じているからなのだということを、ナターシャは知っていた。
だから、パパは無言で無表情なのだ。
「そう。氷河は いつだってナターシャちゃんの味方だよ」
その分、マーマがナターシャに優しく微笑んでくれる。

「アフロディーテおじちゃんはね。ナターシャちゃんが、自分のことを とっても綺麗で 大好きって言ってくれたらいいなあって、思ってたんだよ。なのに、ナターシャちゃんに そう言ってもらえなかったから、しょんぼりしちゃったの。だけど、アフロディーテおじちゃんは 強い大人っていうことになっているから、しょんぼりしていることを ナターシャちゃんに知られたくなかった。それで、『もともと ナターシャちゃんのことを好きなわけじゃなかったし、綺麗って言ってもらえなくても平気だもん』と思って、泣くまいとしたんだよ。可愛いでしょ。ほんとは、ナターシャちゃんに『綺麗』『大好き』って言ってほしかったのに」
「……ちょっとカワイイ」
「うん。本当は そう思っていないのに、『綺麗』とか『大好き』って言う必要はないの。でも、意地を張って、『嫌い』って言うのは よくないよ。お友だちになれていたかもしれない人と、お友だちになれなくなっちゃうかもしれないから」

ここまで言えば、ナターシャは 自分のすべきことを わかってくれる。
瞬はそう思っていたし、実際 ナターシャは瞬の期待に応えてくれた。
人間の好みにうるさい氷河が、ナターシャをAグループのトップの座に据えているのは、ナターシャが彼の娘だからではない。
氷河がナターシャをAグループのトップの座に据えているのは、ナターシャが素直で賢い娘だからなのだ。

瞬に諭されたナターシャが アフロディーテの方に向き直り、彼の顔を見上げて、
「ナターシャは、アフロディーテおじちゃんのこと、ちょっとカワイイと思う。ナターシャ、アフロディーテおじちゃんのこと、嫌いじゃないヨ」
と告げたのは、ナターシャが“アフロディーテおじちゃん”と お友だちになりたいと思っていたからだったろう。
アフロディーテは、ナターシャにとって、“お友だちになれなくてもいい人”ではなかったのだ。

そして、アフロディーテが 正直なナターシャに どう答えればいいのか わからずに顔を強張らせるばかりだったのは、アフロディーテが素直になる方法を忘れた不器用な大人だったから。
不器用なアフロディーテと、アフロディーテの不器用さが今ひとつ理解できないでいるナターシャのために、瞬が すかさずフォローに入る。
「アフロディーテおじちゃんったら、ナターシャちゃんに可愛いって言ってもらえたのが嬉しすぎて、『ありがとう』も言えずにいるよ。ほんとに可愛いね」
瞬に そう説明されて、ナターシャはやっと、アフロディーテの眉と頬と口許が――つまりは 顔全体が――引きつったまま 固まっている訳が わかった(ような気がした)らしい。
「ウン。アフロディーテおじちゃん、スゴク カワイイ!」

ナターシャは満面の笑み、アフロディーテは 黄金聖闘士の威厳も面目もない。
それでも アフロディーテが 瞬やナターシャに何も言えずにいたのは、ナターシャに『可愛い』と言われることを、自分が喜んでいるのか いないのかが、自分のことだというのに、アフロディーテ自身が わかっていなかったからだったに違いない。
断固として瞬の言を否定し、即座にナターシャの好意を拒むことができない程度には、アフロディーテは この状況を不快に感じていなかったのだ。
決して、手放しで喜べるほど 現況が嬉しかったわけではないが。

アフロディーテの心身が硬直しているのをいいことに、瞬は どんどん アフロディーテを“お友だちになりたい人”に変えていく。
いったん席を立った瞬は、深紅のビロードが貼られた大きな箱を手にして戻ってくると、それをリビングルーム兼 客間のテーブルの上に置いた。
箱の蓋に手を掛け、ナターシャを焦らすように ゆっくり少しずつ、その蓋を開けていく。
「ナターシャちゃんを驚かせようと思って 内緒にしてたんだけど、アフロディーテおじちゃんは、今朝、ナターシャちゃん宛てに お花をいっぱい送ってくれてたんだよ。真っ白い薔薇の花だよ」
瞬が言い終わると同時に、箱が全開。
ナターシャの目の前に、ヴィルゴ――乙女座という名の純白の薔薇でできた花畑が現われる。
「ワア……!」

リボンは緑。
添えられているカードには、『うつくしい おひめさまに』の文字が記されている。
子供に贈るにしては、可愛らしさより 美しさを重視した そのセレクトに、
「さすが気障」
と ぼやいたのは、星矢ではなく紫龍だった。
こんな気障な真似が平気でできるのに、なぜナターシャ当人に『可愛い』の一言が言えないのか。
なぜ『まあまあだな』と言ってしまうのか。
紫龍には、アフロディーテの言動の法則が どうにも理解できなかったのである。
だが、紫龍には理解できないアフロディーテの贈り物は、ナターシャの心を 強く捉えたようだった。

“可愛い”花ではなく、“美しい”花。
『かわいい おひめさまに』ではなく、『うつくしい おひめさまに』。
それが、ナターシャには、子供扱いではなく、一人の大人として見てもらえたように感じられたらしかった。
息を呑んで、美しい純白の薔薇の花に見入っていたナターシャは、やがて溜め息と共に、
「アフロディーテおじちゃん、パパの次くらいにカッコいいかも……」
と呟いた。

ナターシャの『パパの次に』は、ほぼ『世界でいちばん』という意味である。
ナターシャにとって、氷河は絶対者。一般の人間と比較することなど思いもよらない特別の、いわば異次元別次元の存在なのだから。
アフロディーテを“一般の人間”に分類することは正しいのかという問題はあるが、ともかく『パパの次に』はナターシャの最大最高の賛辞だった。

「ナターシャ、アフロディーテおじちゃんが大好きダヨ! アリガトウ!」
ナターシャが、瞳を明るく輝かせて、アフロディーテに“ありがとう”を言う。
その上、『嫌いじゃない』から『大好き』に格上げ。
嘘をつけないナターシャが そう言うからには、アフロディーテに対するナターシャの好意と感謝の気持ちは、もちろん真実のものである。

眩しいほど素直なナターシャの笑顔に、アフロディーテは一瞬 たじろいだ。
戸惑う自分の心を すぐに立て直し、『大好きなら、せめて“おじちゃん”ではなく“お兄ちゃん”と呼べ』と言いたげな顔を作る。
しかし、その不満を言葉にしないだけの大人の分別は、アフロディーテも持っていたらしい。
彼は、彼のプライド、困惑、きまりの悪さ、怒り、自身の生きる姿勢を変えたくないという気持ち、そして 意地でも認めたくない喜びや嬉しさ等、すべてのものを、
「ふん」
の一言に まとめてしまった。

それでナターシャは、アフロディーテがどういう人間なのかが しっかり把握できたらしい。
薔薇のおじさんは、蟹のおじさんと同じグループの人。
人に感謝されるのが苦手な人。
不器用で、素直でない人。
でも、悪い人じゃない――のだ。

パパとマーマの仲間の正義の味方が“悪い人”ではないことがわかって、ナターシャは安心したようだった。
しかも、おひめさま宛ての大量の薔薇。
素直で正直なナターシャは、嬉しさを隠しきれず、その日は それ以降 ずっと(アフロディーテに、どんなに素直でない憎まれ口を叩かれても)終始 ご機嫌で にこにこしていた。
アフロディーテ自身は、素直なナターシャの笑顔に 居心地の悪さを覚えているようだったが。
それ以上に、ナターシャの周囲の大人たちが自分に向ける苦笑まじりの視線が 癪に障って仕方がないようだったが。






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