(『X.O.』は本当は『extra old』です)
|
光が丘公園の ふれあいの径に入るなり、ナターシャが氷河と瞬に追いつかれないよう全速力で 芝生広場の方に駆け出すのは、イチョウ並木の傍らにある売店に いち早く飛び込むためである。 光が丘公園の売店には できたてのパンやお菓子を売るパン屋さんが入っていて、ナターシャが最近 お気に入りのチュロスが売られているのだ。 『ご飯が食べられなくなるから駄目だよ』とマーマに言われる前に、チュロスをトレイに取って レジに置かなければならない。 その思いが、ナターシャの走る速度を速くするのである。 なにしろ、ナターシャが どんなに一生懸命 走っても、どんなに素早くトレイとトングを手にして、チュロスを棚から取ろうとしても、マーマはいつのまにかナターシャの すぐ横にいて、 「ご飯が食べられなくなるから、飲み物だけにしようね」 と言って、ナターシャの手からトングを取り上げてしまうのだ。 これまで ナターシャは 数えるほどしか、マーマとの競走に勝ったことがなかった。 「ナターシャの走る速さは、どんどん速くなってきているな。角を曲がる時のライン取りも、見事に最短のラインを選ぶようになってきている。ナターシャは頭を使って走っているぞ」 氷河が そんなことを瞬に語り出すのは、ナターシャの援護射撃。 少しでも瞬の歩みを遅くしてやろうという、氷河の後方支援である。 そんな氷河とナターシャのために、瞬は、4回に1度だけ この勝負に負けてやることにしていた。 今日は、その4回に1度に当たる日。 氷河も それは承知しているはずなので、彼の援護射撃は 実は援護射撃ではなく、単にナターシャを褒めたいだけだったのかもしれない。 瞬は、胸中で こっそり笑いながら、意識してゆっくりと歩き続けた。 マーマに勝って 見事チュロスをゲットした時のナターシャの笑顔を見るのが、瞬は好きだった。 その笑顔が 輝くばかりに明るく嬉しそうなのは、4回に3度の負けがあるからである。 その事実に、ナターシャは気付いているのか いないのか。 いずれにしても 瞬は、ナターシャを、勝つことしかしらない少女に育てるつもりはなかった。 ともかく今日は、ナターシャの勝利の笑顔を見る日。 そのつもりでいたので、てっきりパン屋さんのレジの前で パパとマーマの到着を待っていると思っていたナターシャが、イチョウ並木を逆走してきたのに、瞬は驚いてしまったのである。 「パパ、マーマ!」 ナターシャが氷河と瞬の許に駆けてくる。 「ナターシャちゃん、どうしたの」 『チュロスを食べるんじゃなかったの?』と尋ねてしまっては、彼女のマーマが それを是認していることになるので、尋ねるわけにはいかない。 声にする直前で その質問文を呑み込んだ瞬を、ナターシャは困ったような顔で見上げてきた。 「変なおじちゃんが、ナターシャに かき氷をご馳走してくれるっテ」 「かき氷?」 光が丘公園の売店では、夏場には かき氷も販売していた。 が、今は真冬である。 空調が利いて暖かいイートインコーナーがあるのであれば、冬場に かき氷やアイスクリームを ご馳走してもらうのも 嬉しくないことではないかもしれないが、光が丘公園の売店にはイートインコーナーはない。 当然、売店で買ったものは 真冬の屋外の公園のベンチやテーブルで食することになる。 単に幼い子供を喜ばせようとしてのことであっても、誘拐のためのエサにしても、その選択は不適切すぎた。 「変なおじちゃん?」 「ウン……」 瞬に問われたナターシャが、その小さな手で瞬の手にすがり、心許無げに頷く。 「正義の味方ミタイナ、違うミタイナ……」 「?」 首をかしげるナターシャの その呟きを聞いて、瞬は少々 心身を緊張させることになった。 ナターシャは、誘拐の常習犯ならぬ常習被害者である。 これまでに幾度も、いろいろな誘拐犯に誘拐されてきた。 それらの誘拐犯の中に、まともな(?)営利誘拐犯は一人もいなかったが、ともかくナターシャは様々な手合いに誘拐され慣れているのだ。 ナターシャは、そのたびに、自分は正義の味方についていっただけで 誘拐などされていないと言い張るのだが、瞬は、保護者に断りなく子供を連れ去る行為は誘拐以外の何物でもないと考えていた。 そういったことが これまでに幾度もあったので、最近は瞬は、『一緒においで』『美味しいお菓子をあげる』と誘ってくるのが 正義の味方であってもついていかないように、ナターシャに言い含めてあった。 正義の味方の証である(ことになっている)小宇宙をまとっていても、それがロスト側に属する聖闘士である可能性がある。 アテナに敵対する陣営に属する聖闘士の中にも、害意を持たない者や邪悪でない小宇宙を持つ者が存在することが、事態を面倒にしていた。 無論、逆の場合もある――アテナ陣営に属する聖闘士の中にも、完全に善良と言い切ることのできない聖闘士は存在する。 自称“相当 邪悪”なデスマスクを『ありがとう』を言うべき人と看破するナターシャであるから、ナターシャの正義の味方認定の判断は 極めて信用度が高いのだが、ともかく、悪意や害意を帯びていない小宇宙の持ち主であっても“敵”はいるのだ。 すなわち、己れの正義を 心から信じている敵というものが。 ナターシャは、珍しく その判断に迷っているようだった。 だから彼女は パパとマーマの許に逃げてきた――のだろう。 「ニッコーでヨシノと食べた かき氷は美味しかったケド、今は寒いヨー」 それは 極めて妥当な判断である。 冬場に、身体を冷やすものを食べるのは賢明ではない。 「ナターシャ、焼き芋なら、一緒に行ってあげても いいカナって思ったんだケド……」 その判断は駄目。 ここは やはり、大人が判断する必要がありそうだった。 「どんな おじちゃんだったの?」 瞬が ナターシャの前で しゃがみ、その顔を覗き込んで、尋ねる。 氷河は ナターシャが駆けてきた売店の方に視線を投げ、怪しい人間の気配を探っている。 “変な おじちゃん”は、ナターシャを追ってきてはいないようだった。 「ンート、髪が長くて、小宇宙は正義の味方の小宇宙だったと思ウ」 髪が長くて正義の味方の小宇宙を持っている人物に、瞬は心当たりが多すぎた。 それが誰なのかを特定するには、情報が足りなさすぎる。 「それから?」 瞬に重ねて尋ねられたナターシャが ふいに もじもじし始めた訳が、瞬には すぐには わからなかったのだが、その謎は、 「眉毛が ちょっと変ダッタ」 と言う、ナターシャの小声の答えで判明した。 ナターシャの声が 急に ひそひそ声になったのは、『変わった姿の人のことを あれこれ言うのは よくない』と、日頃から瞬に言われているため――である。 以前、食料品を買うために入ったスーパーマーケットで、頭髪が特殊な中年男性を見たナターシャが、『カッパさんみたいー』と大きな声で言って、その人を(おそらく)傷付けてしまったことがあったのだ。 もちろん、ナターシャには悪気はなかった。 ナターシャは その前日、キュウリの巻き寿司を なぜカッパ巻きというのかを瞬に教えてもらったばかりで、キュウリ好きのカッパさんに大いに親しみを抱いていたのだから。 瞬は、頭頂に毛髪のない人を『カッパ』と呼ぶのは 好ましくないことだと ナターシャに納得させるのに、かなり苦労したのである。 人間は 誰もが 自分の望む通りの姿をしているわけではないのだから、人の外見について 軽い気持ちで あれこれ評するのは よくないことだと、今ではナターシャもわかっている。 だから、ナターシャの声は小さくなったのだ。 「眉毛が変っていうと、眉が丸くて おでこの方にあったとか、右と左の眉毛が繋がってたとか?」 引き眉なら 貴鬼であろうから問題はないが、右と左の眉毛が繋がっているなら冥界三巨頭のラダマンティスの可能性がある。 冥界三巨頭の一角ともあろう男が、まさか かき氷で幼女誘拐を企てるようなことがあるとは思えなかったが、もし そうなら、それは ナターシャには 近付いてほしくない相手だった。 が、ナターシャの見た変な眉毛は 丸いわけでも 繋がっているわけでもなかったらしい。 「ウウン。アノネ、眉毛が枝分かれシテタ」 「え……」 眉毛が繋がっていたと言われた方が、瞬は まだ冷静でいられたかもしれない。 ナターシャの言葉に、瞬は心臓が跳ね上がった。 眉毛が枝分かれしている正義の味方といえば、それは あの人しかいないではないか。 氷河に聞かれたかと、素早く氷河の方に視線を走らせる。 幸い、ナターシャの ひそひそ声は、氷河の耳には届いていないようだった。 「そのおじちゃんは、どこにいたの?」 「ご馳走してもらってもいいのか、パパとマーマに聞いてみるって、ナターシャが言ったら、バードサンクチュアリの方に行っちゃっタ」 「バードサンクチュアリの方に?」 バードサンクチュアリは、光が丘公園内にある野鳥観察のための自然保護区域である。 今日は そこにある観察舎が開放される日で、瞬と氷河がナターシャを連れて光が丘公園にやってきたのは、バートサンクチュアリで越冬ガモを見るためだった。 ナターシャが頷くのを見て、瞬は その場に立ち上がったのである。 瞬は、その人が 本当に あの人なのかを確かめなければならなかった。 それも、氷河に知られぬように。 「ナターシャちゃん、氷河と一緒にいて。氷河から離れちゃ駄目だよ」 「ウン。ナターシャ、パパから離れないヨー!」 マーマの言いつけは絶対。 もちろん、その言いつけには 嬉しい言いつけと嬉しくない言いつけがあったが、どちらも絶対にちゃんと聞くようにと、ナターシャは いつも氷河に言われていた。 『パパから離れちゃ駄目』という言いつけは、ナターシャには嬉しい言いつけである。 ナターシャは いい子のお返事をして、周辺の様子を窺っている氷河の許に駆け寄り、氷河としっかり手を繋いだ。 「氷河。ナターシャちゃんにチュロスを買ってあげて。ただし、飲み物はココアじゃなく、あったかい お茶で」 「おまえは?」 「一応、辺りを確認してくる。ついでに、バードサンクチュアリに 鳥が来ているかどうかを見てくるよ」 ナターシャは聡い子なので、マーマがパパに報告しないことは、パパに知らせてはいけないことなのだということを、しっかり承知している。 ナターシャは、“変な眉毛の人”のことも 氷河には話さないだろう。 ナターシャにだけ わかるように にっこり微笑むことで、ナターシャの賢明な判断を褒めてやってから、瞬は、バードサンクチュアリの方へと 急ぎ足で歩き出した。 |