“眉毛が枝分かれしている 変なおじちゃん”は、まず間違いなく氷河の師、先代の水瓶座の黄金聖闘士、アクエリアスのカミュである。
教皇アイオロスが率いる異世界のロスト聖闘士と この世界の聖闘士との戦いに際して、彼は再び蘇った――のだろう。
氷河より先に 自分が彼に会わなければならないと 瞬が考えたのは、カミュの立ち位置がわからないからだった。
彼が 彼の弟子の敵にまわるのか、味方についてくれるのか。
何よりも まず第一に、瞬は それを確かめなければならなかった――確かめなければならないと思ったのだ。

この世界では既に、氷河が水瓶座の黄金聖衣を継承している。
カミュは、ロスト側につく可能性が極めて高い。
瞬は、その事態を恐れていた。
カミュが味方についてくれるのなら 問題はないが、もし 彼がアテナの敵にまわるのなら、氷河をカミュと戦わせるわけにはいかない。
氷河とカミュを敵対させるわけにはいかないのだ。

もし 彼が氷河の敵にまわるつもりでいるのなら、瞬は、彼が氷河に敵として対面する前に 彼を説得しなければならなかった。
そんなことをして、氷河を悲しませないでくれと。
敵としてではなく味方として、氷河に会ってくれと。
それで 氷河が どれほど喜び、どれほど幸福になれるか。それが わからない あなたではあるまい――と。
カミュが頑固なことは知っている。
しかし、氷河のために――瞬は、自分がカミュと戦ってでも、カミュを説得するつもりでいた。
瞬は、それほど壮絶な覚悟を決めていたのだが。

「アンドロメダ……バルゴ……瞬……」
バードサンクチュアリの手前で、瞬が“変なおじちゃん”の姿を見付ける前に 向こうから――カミュが瞬を呼んでくれたのだ。
彼は、元アンドロメダ座の青銅聖闘士、現乙女座の黄金聖闘士を、どう呼べばいいのか 迷っているらしく、呼び名の候補を三つ羅列して、瞬を呼びとめた。

小宇宙は燃やしていない。
声に、決然とした響きはない。
それ以前に、呼び方を迷うという行為に 緊張感を覚えることは困難である。
葉の落ちたブナの木の陰から姿を現わしたカミュは、その心身に“敵”の雰囲気を まとってはいなかった。
敵ではない。
敵意はない。
むしろ、その眼差しは優しげで――優しげというより、戸惑っていた。

「カミュ……本当に……」
ほっとして、だが 瞬は すぐに気を引き締めたのである。
幼いアテナを命を賭して守ったアイオロスでさえ、アテナの敵にまわる。
それが、今 この世界の聖闘士たちが直面している戦いなのだ。
油断はできない。

油断はせずに――何としても彼を 味方の陣営に引き込まなければならない。
もし それが叶わなかったなら、氷河が またつらい思いをすることになる。
それだけは――それだけは、瞬は絶対に避けなければならなかった。
以前は――氷河が10代の少年だった頃の戦いでは、氷河の悲しみは、氷河と彼の仲間たちの悲しみだった。
だが 今は、氷河の悲しみは ナターシャをも悲しませることになる。
何よりもナターシャの幸福を願う今の氷河に、ナターシャを悲しませるようなことをさせるわけにはいかないのだ。

アクエリアスのカミュは、節を曲げることが嫌いな男。
彼の説得が難しいことを、瞬は承知していた。
だが 瞬は、カミュが氷河同様 情の深い男だということも知っていた。
説得は、決して不可能なことではない。

「カミュ……なぜ、こんなところに……。どうして こんなところに隠れるようにしていらっしゃるんです。氷河が どれほど あなたに会いたがっているか……」
カミュを説得するには、情に訴えるのが最も有効。
カミュとて、氷河と敵対するようなことを心から望むはずがない。
瞬は、氷河が亡き師を今でも どれほど慕っているのかを カミュに伝えようとしたのだが、氷河の名を聞いたカミュは 実に珍妙な表情を浮かべ、そして、どんな言葉も口にせず唇を引き結んでしまった。
カミュの想定外の反応に戸惑いつつ、瞬は更に畳みかけていったのである。

「あの……ナターシャちゃんをご覧になりました? 氷河が引き取って育てている、氷河の娘なんです。ぜひ抱っこしてあげてください。ナターシャちゃんと仲良くしている あなたを見たら、氷河は とても喜ぶと思うんです」
カミュを、何としても味方に引き入れなければならない。
氷河の娘は、カミュにとっては孫のようなもの。
瞬の前に立つカミュは到底 孫のいる年齢には見えなかったが、祖父母(的立場にある人間)が孫に弱いのは 人間界の常識である。
カミュが人間界の常識から外れた人間でないことを祈りつつ、瞬は彼に訴えた。

瞬の訴えに、カミュは心を動かされたようだった。
瞬の目には そう見えた。
だが。
「私は氷河には会えないのだ」
それが、カミュの返事だったのである。

「なぜ!」
瞬は、つい責めるような声を上げてしまったのである。
そんな自分に慌てて、そして 懸命に、声の抑揚を抑える。
「どうしてです。まさか、アテナの敵にまわるというのではないですよね?」
『氷河の敵に』とは言いたくない。
瞬の苦衷に気付いているのかいないのか、
「そうではない」
と瞬に答えるカミュの声音は、瞬のそれより つらそうだった。
そして カミュは、ふいに、およそ 聖闘士のバトルには関わりのないことに言及してきた。

「氷河は 店を一軒 任されて、酒を提供する仕事に従事しているとか」
「え?」
カミュはそれが気に入らないのだろうか。
だが、まさか カミュが、氷河にスキー選手やスケート選手になってほしいなどという夢を抱いていたとは考えにくい。
当惑しながら、瞬は浅く頷いた。

「はい。水瓶座は、オリュンポス12神に不死の酒ネクタルを給仕するガニュメデスの姿を象った星座。氷河には ふさわしい仕事かと思っています」
「氷河のバーで、シュラがアルバイトをしていると聞いた」
「え……ええ……」
動きが早すぎ、無駄に力があり余っているせいで、バーテンダーとしてはおろか 清掃員としても ほとんど使い物にならないと、氷河は 事あるごとにシュラの仕事振りを嘆いている。
仮にも先達たる黄金聖闘士、しかも 無駄に勤勉で真面目、その上 蘭子のお気に入りのシュラを クビにするわけにもいかず、氷河は難儀しているようだった。
が、それがカミュに どんな関わりがあるのだろう?

「シュラは、アルバイトの採用面談の際、師匠の酒に関する思い出を語り、氷河の情に訴えて採用されたそうではないか」
カミュは、いったい どこから そんな情報を仕入れてきたのか。
もしかすると、真冬という季節にもかかわらず ナターシャをかき氷で誘おうとしたのも、日光でナターシャが天然氷のかき氷を気に入っていた情報を聞いてのことだったのかもしれない。
一つの情報、一つの目的、一つの事象に気を取られると、他の要因が全く見えなくなるあたり、氷河とカミュは 見事に似たもの師弟だった。

「そう聞いています……が……」
それがいったい何だというのか。
瞬の困惑は、一層 深く大きなものになった。
「あの……氷河は既に成人していますし、目くじらを立てるようなことでは」
「そうではない。シュラは、師の酒のエピソードを語って 恰好よく決めたのだ」
何をもって“恰好よい”と言うのかは 人によって違うだろうが、師の残した言葉を語るシュラの思いが、氷河の心を動かしたのは紛れもない事実。
「ええ……まあ」
瞬は、とりあえず頷いた。

「私は、氷河の師として、シュラよりもっと恰好よく決めたいのだ」
「……」
一瞬、何を言われたのか、瞬は わからなかったのである。
わかりたくなかっただけだったのかもしれないが、ともかく、カミュが何を言っているのかが、瞬には わからなかった。

「いや、“決めたい”ではない。決めなければならないのだ」
「はあ……」
とにかく、カミュは、氷河の敵にまわる意思はないようである。
『氷河の師として、シュラより恰好よく決めたい』というのは、そういうことだろう。
瞬は今度こそ 心から安堵して、カミュの合流(予定)を歓迎し、彼の希望を激励した。
「でしたら、ぜひ 恰好よく決めてください。氷河のことですから、『さすがは我が師』と感激して――」
「そうしたいのだ!」
カミュが、彼にしては鋭い声で 瞬の言葉を遮る。
驚き 息を呑んだ瞬の前で、カミュは 彼の超個性的な眉を苦しそうに歪めた。

「そうしたいのだ。だが、問題が一つある」
「問題というのは……」
氷河は師に会いたがっている。
どうやら カミュには、弟子の前で恰好よく決めたい。かつ、彼には アテナへの反逆の意思もないようである。
再会を望む師弟に、いったいどんな問題があるというのか。
戸惑う瞬に、カミュが“問題”の内容を知らせてきたのは、長い沈黙のあと――ものすごーく長い沈黙のあとだった。
抑揚がなく、覇気もなく、力も感じられず、どこか空虚な響きの声で、カミュは その“問題”を口にした。
「私は酒が飲めないのだ」
と。






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