すべては、“氷河の前で、恰好よく決めたい”というカミュの願いを叶えるため。
氷河とカミュの再会を実現するため。
氷河に幸せになってほしいから。
ただ それだけ。
ただ それだけだったというのに。

瞬が氷河でない外人男と連れ立って、毎日のように ホテルのバーで親密そうに酒を酌み交わしているというデマ(事実である)が、蘭子ママを通して 氷河の耳に入ってしまったことで、すべては水泡に帰してしまったのである。
“水泡に帰す”だけなら、まだ よかったが(よくもないが)、そのせいで 瞬は絶体絶命のピンチに追い込まれてしまったのだった。

蘭子は 決して、悪意から氷河への告げ口に及んだわけではなかったらしい。
やたらと目立つ綺麗な二人連れが あちこちのホテルバーに出没しているという噂を運んできた知り合いに、蘭子は、『どれだけ綺麗な二人連れでも、ウチのバーデンダーカップルほどではないはず』と対抗意識を抱いて言い張った。
では どちらのカップルの方が綺麗か比べてみようということになり、蘭子の知り合いは、噂の二人を目撃した友人に、問題のカップルが親密そうに酒を飲んでいる現場の動画を送らせ(明白に肖像権の侵害である)、それを見た蘭子は びっくり仰天。
彼女は、氷河の幸福を守るべく、
「娘を溺愛するのも結構だけど、瞬ちゃんへのサービスも忘れないようになさい」
と、氷河に注意を喚起した。
怪訝に思った氷河が、なぜ急に そんなことを言い出したのかと蘭子を問い詰め、蘭子は 瞬が あちこちのホテルで氷河ではない外人男性といるところを目撃されているという噂を、氷河に知らせないわけにはいかなくなった――という流れだったらしい。


「ナターシャがいるのに、浮気とは!」
と責めてくる氷河に、それはどういう理屈なのかと、瞬は尋ねたかったのである。
そして、『氷河は僕を信じてないの !? 』と問い質したかった。
こんなことで浮気を疑われるなど(疑われても仕方のない状況ではあったが)、不本意の極み。
もちろん 瞬は、氷河の疑いを即座に否定し、逆に彼を非難もしたかった。
にもかかわらず、瞬が そうすることができなかったのは、氷河の理不尽な怒声に続いて、ナターシャが、
「マーマ! パパを捨てないで!」
と、瞬に泣きついてきたから。

「ナターシャちゃん……」
ナターシャは いったい、どこで そんな言い回しを覚えてきたのか。
おそらく蘭子の冗談あたりが出どころなのだろうが、蘭子には、ナターシャの前で使う言葉に注意してほしいと、一度 釘を刺しておかなければならない――と、(こんな時だというのに)瞬は思ったのである。
つい先日も、瞬は、蘭子が何気なく口にした『マザコン』という言葉の意味をナターシャに説明するのに苦慮したばかりだったのだ。

ナターシャにとって『捨てる』は、使えなくなったものをゴミ箱に投げ入れること。
大好きなパパを捨てるマーマを悪者と思うなら まだまし、大好きなパパが不用品として捨てられるというイメージは、ナターシャに自分の存在価値を見失わせかねない。
氷河の誤解はともかく、瞬は、ナターシャを そんな価値観を持った子供にするわけにはいかなかった。
ナターシャを不安な気持ちのままにしておくわけにもいかない。
だから――だから、瞬は、事実を氷河に白状しないわけにはいかなかったのである。

「ナターシャちゃん。それが僕でも 氷河でも 他の誰かでも、人は人を捨てることはできないんだよ。人は誰でも、どんな人でも、とっても大切なものだから。僕が氷河やナターシャちゃんと一緒にいたいのを我慢して、よその人と一緒にいたのは、氷河とナターシャちゃんのためだよ。大好きな人のために そうしなきゃならないことも、人にはあるんだ」
「パパとナターシャのため……?」
「もちろんだよ」
氷河とナターシャのために。
瞬は、カミュの事情を氷河(とナターシャ)に語るしかなかった。






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