「毎日 叱られても、どんなに厳しくされても、それでも氷河が瞬を好きな理由かぁ……。瞬の第一の特性っていうと、やっぱ、清らかってことかな。何つったって、瞬は 地上で最も清らかな人間ってことになってるし」 「キヨラカってナァニ? 悪い子じゃないってコト?」 ナターシャからの素朴な質問。 星矢は、答えに窮した。 素朴な質問というものは、大抵の場合、本質的根源的な疑念から成り、その疑念に明解な解答を与えることは難しいのである。 ピタゴラスの定理を使って、二等辺三角形の斜辺の長さを求めることは容易だが、ピタゴラスの定理を証明することは難しいのだ。 「清らかの定義は難しいな……」 答えに窮した星矢に代わって、紫龍が(彼自身も あまり自信は なさそうに)ナターシャの質問に、とりあえずの答えを示す。 「自分の利益のために 行動しないということかな。自分が得をするために、嘘をついたり騙したりして、人を傷付けるようなことをしない。そういうこと」 「でも、地上で最も清らかな人間ってことになってる瞬だって、嘘をつくことはあるよな? 瞬はもう清らかじゃないのか?」 窮地を救ってもらったにも かかわらず、星矢が紫龍の答えに難をつけてくる。 「マーマが嘘をつくの?」 星矢の指摘は、ナターシャを不安顔にした。 紫龍がすぐにフォローに入る。 「瞬が本当のことを言わないのは、その人のためを思うからだ。たとえば、とても重い病気に罹っている人に、本当のことを言ったら、その人は恐くて泣き出してしまうかもしれないだろう? 瞬は そういう時、病気の人に元気になってもらうために、『大丈夫』と言うんだ」 「ソッカー。マーマのお仕事は、ビョーキの人を元気にすることだもんネ」 ナターシャは、人のための嘘と 自分のための嘘の区別ができ、かつ、二種類の嘘の是非の判断もつくらしい。 ナターシャは すぐに不安の色を消し去った。 「うん。瞬でも嘘をつくことはあるよな。でも、清らかな人間は誰だって訊かれたら、俺は やっぱり『瞬だ』って答えると思うし……」 ナターシャより星矢の方が“清らか”の定義に引っ掛かってしまっている。 仲間たちと離れていた時間が長かったので――星矢は、自分が仲間たちの変化を知らずにいる可能性に 思いを至らせずにいられないのだ。 なにしろ、氷河が定職に就くという奇跡が実現するほど、彼の仲間たちは大人になってしまったのだ。 彼が仲間たちとの連絡を絶っている間に。 そんな星矢のために、紫龍が懇切丁寧に 彼の見解を提示する。 「瞬は今でも 清らかなままだろう。瞬は、子供の頃から、本質は何も変わっていない。俺は地上にいる すべての人間を知っているわけではないから、“地上で最も”という評価が正しいのかどうかについては 何とも言えないが、瞬が清らかな心を持つ人間だということは 否定しないし、できない。昔は そうだったし、今も そうだ。ただ、瞬は それ以上に――清らかさ以上に、優しい心を持つ人間なんだ」 「“キヨラカ”より“ヤサシイ”の方がエライの?」 そこに またしてもナターシャの素朴な疑問が炸裂。 「それは考えたことがなかった」 紫龍は唇の端に微苦笑を浮かべた。 「“清らか”と“優しい”のどちらかが偉いということはないだろうが……。清らかなだけの人間は、氷河の好みではないだろうな。優しさや思い遣りの気持ちから出る嘘をつけない人間は、人を傷付けることがある。清らかすぎる人間の中には、清らかでない人間を許せないと考える者もいる。昔、清らかでない人間を みんな消してしまおうとしたハーデスという恐い神がいたんだ。彼は 清らかすぎて、悪者になってしまったんだな」 ハーデスは、世界が清澄であることを欲する あまり、地上に はびこる汚れが許せず、汚れた人間世界を粛清しようとした。 考えようによっては、瞬よりハーデスの方が清らかなのかもしれないが、紫龍には――人間には――ハーデスを清らかだと思うことはできなかった。 「ンー……」 ナターシャには、清らかな人が悪者になる仕組みが よくわからないらしい。 眉間に小さなシワを作ったナターシャの真剣さに、紫龍は つい口許が ほころんだ。 そして、そんなことはナターシャには わからなくていいと思う。 「清らかさと優しさの どちらかではなく、どちらもあるのが 偉いのだろうな」 「でも、マーマは、パパには あんまり優しくないヨ?」 「それは、氷河が悪い子だからだ。瞬は、氷河を いい子にしようと頑張っているんだよ。氷河に ナターシャのお手本になれるような いい子になってほしいと、瞬は思っているんだ」 「ナターシャの お手本どころか――氷河の奴、自分はピーマンを食べないくせに、ナターシャには ちゃんとピーマンを食えなんて、無茶苦茶なこと 言ってんじゃないか?」 「エ……」 ナターシャが、びくりと身体を震わせる。 どうやら、星矢の当てずっぽうは図星を衝いていたらしい。 星矢のそれは、当てずっぽうというより 相応の根拠のある推測だったので、氷河の棚上げ行為に、星矢と紫龍は 今更 呆れることさえしなかったが。 「氷河に喜んでもらいたいなら、ナターシャは、氷河の真似をするよりは、瞬を手本にした方がいいだろうな。氷河は 自分自身より瞬の方が好きだから」 紫龍は、『瞬の真似をしろ』という意味ではなく、『瞬のように優しい子になれ』という意味で、そう言った。 「ウン……」 頷くナターシャの顔が曇ったのは、彼女が、氷河に喜んでもらえるような振舞いができていないから。 そう察した紫龍が、 「まさかとは思うが、ナターシャは 氷河の真似をしているのか?」 と問うと、ナターシャは更に項垂れるように頷いた。 「ナターシャも、朝ごはんの時、ピーマンを食べなかっタ……」 「瞬に叱られたか?」 「マーマはパパを叱った」 「ナターシャが真似するから、ぐだぐだ言わずにピーマンも残さず食いやがれってか?」 「ちゃんと食べてあげなきゃ、ピーマンがかわいそうでしょって、マーマは言ってた」 「ピーマンが かわいそう?」 「ウン。イタダキマスっていう、ご飯の時のご挨拶は、“お野菜や動物の命をイタダキマス”っていうことなんだッテ。だから、ピーマンに感謝して食べなサイって」 「ああ、そりゃ、感謝して食わなきゃな。食いモンに関しては、ナターシャは 瞬や氷河より俺を見習った方がいいぜ」 「星矢お兄ちゃんを見習っても、パパはあんまり喜んでくれない気がスル」 「は」 子供は正直である。 事実なだけに、星矢は堂々とナターシャに文句を言うことはできなかった。 「言ってくれるじゃん。ま、実際、そうだろうけどな」 「だが、氷河に喜んでほしいという理由で、瞬の真似をするのもどうかと思うぞ」 「デモデモ、ナターシャはパパに喜んでほしいヨ。パパに喜んでもらうためなら、ナターシャは何でもするヨ!」 「……」 幼い子供にしては――幼い子供だからこそ?――星矢たちに そう訴えるナターシャの目は必死で真剣。 アテナの聖闘士ともあろうものが――星矢と紫龍は ナターシャの必死の訴えに気圧されて、しばし 声を失ってしまったのである。 ナターシャがパパを大好きなことは 知っている。 ナターシャにとって 氷河は、一人ぽっちで見知らぬ街にいたナターシャを 一人ぽっちでなくしてくれた人。 ナターシャを孤独でなくしてくれた人。 命の恩人というより、心の恩人、存在の恩人。 氷河がいたから、ナターシャは今 ここに一人の人間として存在しているのだ。 ナターシャにとって、氷河は かけがえのない存在。 パパに嫌われ 疎まれたら、ナターシャは生きていられないだろう。 たとえ氷河以外の すべての大人たちがナターシャを守ると約束しても。 ナターシャがパパを大好きで、パパに喜んでもらうために必死になる。 その気持ちは わかるのである。 だが、『わかること』と、『それを“よし”とすること』は、全く別のことだった。 ナターシャは、氷河に嫌われることを恐れているのだろうか。 そして、一人になることを恐れているのだろうか。 「ピーマンは縦に切ると、苦みが減るんだ。あとで、瞬に教えておいてやろう」 「フルーツピーマンってのもあるぜ。苦くなくて、甘いピーマン」 迂闊なことは言わない方がいいような気がして、星矢と紫龍は、その場は ピーマンの食し方で ごまかすことにしたのである。 『瞬のようになれ』と言うことはできるし、それでナターシャが間違った人間に育つことはないだろうが、これは余人が 口出しをしていいことではない。 ナターシャのパパとマーマが どうするかを考え、対応すべきことなのだ。 清らかさが過ぎると、人を傷付けることがある。 他者への優しさが過ぎると、自分が傷付くこともある。 瞬は、優しさを、自分のために使わずに 人のために使う人間で、だが、それは瞬ほどの強さがあって初めてできること。 瞬は幼い頃から傷付くこと、人や社会に虐げられることに慣れていて、だからこそ 強く優しい人間でいられたという側面がある。 しかし、瞬と氷河が、ナターシャに対して そういう強さを持つことを望むかというと、その点に関して、星矢と紫龍には判断しきれないところがあった。 特に氷河の考えは。 ナターシャは既に悲しい思いを経験している。 孤独だった時の記憶も、完全には消えていない。 氷河が、ナターシャに、その記憶を忘れて、ただただ幸福な娘になってほしいと願っているのか。 悲しい記憶の上に 強さを培ってほしいと願っているのか。 氷河はともかく瞬は、ナターシャに自分と同じになってほしいとは願っていないだろう。 少なくとも、瞬が経験してきたような つらさや苦しさは、できれば経験しないでほしいと願っているに違いない。 そう思うから。 翌日、仕事を終えた氷河と 夜勤明けの瞬が揃ってナターシャを迎えに来た時、星矢と紫龍は、昨日のナターシャの言動を二人に知らせることだけをしたのだった。 |