『パパに喜んでもらうためなら、ナターシャは何でもするヨ!』というナターシャの必死の訴え。
おそらくは、氷河に嫌われ 疎まれることを恐れて――氷河に好かれるべく、氷河の好きな人の 人となりを探ろうとしたナターシャの言動。
そう言ったことを 星矢と紫龍から知らされた氷河と瞬は――特に瞬は――驚き、当惑し、そして 呆然としたのである。

自分が一人ぽっちでいた時の不安と寂しさを、ナターシャは完全に忘れてはいないだろう――とは 思っていた。
だが、だからこそ、氷河との出会いは ナターシャにとって 大きな喜びであり、幸福を感じさせるものでもあっただろうと、瞬は思っていたのだ。
氷河に愛されて、ナターシャは明るく、人の心を思い遣ることのできる優しい少女に育っている。
氷河の真似をしてピーマンを食べ残すことすら、ナターシャがパパやマーマに我儘を言って甘えることもできるほど幸福な子供になっているからなのだと、瞬は思っていた――心のどこかで 安堵してさえいたのである。

だというのに、ナターシャが 今だに 孤独だった頃の思いを引きずり、孤独に戻ることを恐れていたとは。
毎日 ナターシャの明るい笑顔を見ていた瞬には、それは意想外のことだったのである。
気付かずにいた自分を、瞬は悔いた。
そして、すぐに 瞬は、孤独の影に怯えているナターシャの心を安んじさせるべく、ナターシャに告げたのである。
氷河に見捨てられないために、ナターシャがナターシャ以外の人の真似をする必要はないのだと。
ナターシャは ナターシャのままでいればいいのだと。
氷河は、
「そんなことは、わざわざ言う必要はない。ナターシャは ちゃんと わかっている」
と、涼しい顔で余裕を見せていたが、瞬は言わずにいることができなかった。

「ナターシャちゃん。人を傷付けさえしなければ、ナターシャちゃんは、ナターシャちゃんの好きなように、ナターシャちゃんらしくしていればいいんだよ。僕の真似をしなくていい。ナターシャちゃんがナターシャちゃんのしたいようにして、それが もし間違っていたら、僕が注意するから」
「マーマ……」
ナターシャは、突然 瞬が そんなことを言い出したことに驚いたようだった。
ナターシャ自身には もしかしたら、自分が孤独を恐れているという自覚がなかったのかもしれない。
戸惑ったような目で、ナターシャは瞬に問い返してきた。
「デモ……。マーマは 悪い子は嫌でショ? ナターシャがイイコでいたら、マーマはずっとナターシャと一緒にいてくれるデショ? ナターシャが悪い子になったら、マーマはナターシャを嫌いになるデショ?」
「ナターシャちゃん……」

『もちろん』と答えなければならないのだろう――と、瞬は思ったのである。
『もちろん、悪い子は嫌いだよ』と、答えなければならない。
ナターシャを悪い子にしないためには。
ナターシャを多くの人に愛される、孤独でない、幸せな子にするためには。
だというのに――だというのに、瞬は ナターシャに そう答えることができなかった。
ナターシャを甘えさせたいという思いからでも、不安がらせたくないという思いからでもなく、そう答えることは嘘をつくことになると感じたから。

「そうだね……。氷河と僕は、ナターシャちゃんが どんなに悪い子になっても、嫌いにはなれないだろうね」
それが、今の瞬の 嘘ではない気持ちだった。
ナターシャが どれほど悪い子になっても――顔の無い者の一味に戻ってしまっても――嫌いにはなれない――というのが。
それが親というものなのだろうか。
瞬には父母の記憶がない。
親のあるべき姿は 知識として知っているが、実際の親が どういうものなのかを知らず、親の存在を実感として感じたこともなかった。
瞬が情緒を伴って想起できる 実在の“親”は、氷河のマーマだけ。
だが、アテナの聖闘士である自分は、氷河のマーマのように 我が子のためだけに生き、我が子のためだけに死ぬことはできないだろうと思う。

幼い瞬にとっての“親”は兄だった。
自分が兄の重荷になっている自覚は 常に幼い瞬の中にあり、瞬は いつも兄に迷惑をかけたくないと思っていた。
そして、その思いに反して いつも兄に迷惑ばかりかけていた。
情けない弟を、何があっても嫌わず 見捨てずにいてくれた兄は、たった2つしか歳が違わないというのに、“親”のように弟を愛し守ってくれていたのかもしれない。
彼自身も幼い子供だったのに、兄は あの頃 既に“親”の忍耐力と寛容を備えていたのだ。
今 こうしてナターシャと向き合っていると、兄(親)の愛情の深さと強さが 胸に迫ってくる。
ナターシャに出会わなければ、自分が 兄の愛の本当の強さ深さに気付くことは 永遠になかっただろう。
ナターシャとの出会いが、瞬に それを気付かせてくれた。
だから、兄の強く深い愛情に応えるためにも、兄が自分に そうしてくれたように、ナターシャを幸せな人間に育てなければならない――と 思うのだ。

彼女が悪い子になっても、彼女のマーマは彼女を嫌うことはないという瞬の言葉に、ナターシャは安心したようだった。
強張り気味だったナターシャの頬が、僅かに緩み、ほのかに上気する。
「でも、悲しいよ。ナターシャちゃんが、人を傷付けるような悪い子になったら。僕も氷河も悲しい」
「エ……」
「氷河を悲しませないでね。いい子でいることで、優しい子でいることで、ナターシャちゃんが傷付くことがあっても、僕が必ずナターシャちゃんを守るから。だから、ナターシャちゃんは、氷河を悲しませるような悪い子にはならないで」

“パパを悲しませる”は、ナターシャには決して犯してはならない、絶対の禁忌。
その言葉を聞くと、ナターシャは すぐに、氷河の お手本にしたいほどの いい子になってくれた。
「ウン。ナターシャ、頑張って、苦くてもピーマン食べるヨ。あと、ニンジンも」
ナターシャに 意図して できる“悪いこと”は、今は ピーマンを食べないことくらいのものらしい。
ナターシャの健気な決意に、瞬の口許は 我知らず ほころんでしまった。
いい子のナターシャを抱き上げて、その顔を覗き込む。

「それは氷河を悲しませないためっていうより、ナターシャちゃんが元気で可愛い子でいるために必要なんだよ。ピーマンを食べると、お肌が すべすべになるし、ニンジンを食べると、目がきらきらするんだよ」
「ソーナンダー!」
さすがは女の子と言うべきか。
ナターシャは、それで ピーマンを食べることに 強いモチベーションを抱くことになったらしい。
あとは、ピーマンを食べたナターシャに、氷河が『すごく可愛くなった』と言うように指示しておけば、ナターシャへのピーマン対策は万全である。
瞬は そう思ったし、実際 万全だったろう。
ナターシャのピーマン対策は。
ピーマン対策だけは。

ナターシャは、だが、ピーマンの他にも 対策を講じなければならない問題を抱えていたのだ。
瞬の腕に抱きかかえられていたナターシャが、首をかしげて瞬に尋ねてきた時、瞬は その問題に初めて気付いた。
ナターシャは 少し 心配そうな目で、
「マーマはパパを嫌いなの? マーマが毎日 パパを叱るのは、マーマがパパを嫌いだから?」
と、瞬に尋ねてきたのだ。
それは 瞬には 途轍もなく衝撃的な質問だった。
なにしろ 瞬は、それを、これまで全く意識して行なっていなかったのだ。

「僕、そんなに氷河を叱ってばかりいる?」
つい確認を入れた瞬に、ナターシャが答えを ためらう素振りを見せたのは、瞬が氷河を叱ってばかりいるかどうかの判断を迷ったからではなく、
「イルと思う」
と正直に答えてしまっていいのかどうかを悩んだからのようだった。
ナターシャの声は、少し遠慮がちに小さかった。
もちろん、瞬は 即座にナターシャの懸念を否定したのである。
「氷河に ナターシャちゃんのお手本パパになってほしくて、僕、少し 張り切りすぎていたのかもしれないね。僕が氷河を嫌いなはずないでしょう。僕は氷河を好きだよ」
「ホント?」
「もちろん」
「ヨカッター!」

瞬の気持ちを確かめるや、ナターシャが嬉しそうな歓声を上げ、瞬の首に しがみついてくる。
ナターシャは本気で そんなことを心配していたのかと、ナターシャに そんな心配をさせていたことを、瞬は大いに反省したのである。
正しい主張、正しい言動が、よい結果を もたらすとは限らない。
地上の平和を脅かす敵を一人 倒すことの100倍も、一人の子供を健やかに育て上げることは難しい。
それは、本当に難しいことだった。

マーマがパパを好きでいることが、その事実を確かめられたことが、ナターシャは よほど嬉しかったらしい。
逆に言えば、マーマはパパを嫌いなのかもしれないという懸念が、それほどナターシャの心に影を落としていた――と言える。
その懸念が消えるや、ナターシャは すぐに平生の明朗を取り戻した。

「マーマ。マーマは パパのどんなとこが好きなの? カッコいいとこ?」
サラダのピーマンを よけて食べるような男の どこがカッコいいのだと、ナターシャの前で言うわけにはいかない。
その言葉を、瞬は喉の奥に押しやった。
「んー。そうだね。氷河がナターシャちゃんを大好きでいるところかな。誰かを大好きでいる人は とってもカッコいいって、僕は思うんだ」
「ソッカー。アノネ、マーマ。パパはマーマのこと、すっごく好きなんだヨ。1日に5回くらいは、ナターシャに そう言うんダヨ」
「へ……へえ。ソーナンダー……」

こういう場合、どんなリアクションを示すのが、子供の親として最善なのか。
我知らず 笑顔が強張ってしまう自分は、ナターシャのマーマとして まだまだ未熟のようだと、瞬は しみじみ思ったのである。






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