瞬が目覚めると、そこには、もうずっと長いこと見ていなかった懐かしい夏の空の色がありました。 それが 自分の顔を覗き込んでいる人の瞳だと気付く前に、瞬は それを 誰かを深く愛している人の目だと思ったのです。 真夏の陽光のように輝く金髪の青年が、瞬の顔を覗き込んでいました。 瞬より1つか2つくらい年上の青年に見えたのですが、もしかしたら もっと年上なのかもしれないと瞬が思ったのは、彼の瞳が とても深い色をしていたからでした。 瞬の10倍もの悲しみや苦しみを経験し、瞬の100倍も深く強く誰かを愛している人の瞳。 彼の瞳は そんな様子をしていたのです。 もちろん、初めて会う人ですから、彼が愛しているのは、今 彼が見詰めている人のはずはなく――瞬のはずはなく――それがわかるので、瞬は ちょっと寂しい気持ちになりました。 瞬と同じように 毛皮や外套はまとっていないのに、瞬と同じように 粗末な麻の服を着ているわけではなく、もしかしたら 彼の着ている服は上等の絹。 そのことに気付いた瞬は、自分は あの氷のような風の中で命を落とし、神々の住まう天上界に運ばれたのだろうかと、そんなことを考えたのです。 すぐに、瞬は、そうではないことに気付いたのですけれどね。 だって、そこは とても寒かったので。 周囲は やっぱり雪と氷だらけだったので。 「顔だけでなく、目も綺麗だ」 金髪の青年は、独り言をつぶやくように そう言って、瞬から目を逸らしてしまいました。 「あ……」 青い空が見えなくなってしまったので、浮き立っていた瞬の心は少し沈んでしまいました。 おかげで、瞬は、自分と自分の周囲の様子を確かめるだけの冷静さを取り戻すことができましたけれど。 瞬は、氷の絶壁ではなく、平らなところに横になっていました。 周囲は雪と氷だけでしたが、天井もあります。 そして、瞬は生きているようでした。 氷壁に宙吊りになって死にかけていた瞬を、彼が 雪洞か洞窟のようなところに運んでくれたのだと、瞬は思いました。 彼が どうやって そんなことをしたのか――できたのか――瞬には まるで見当がつきませんでしたけれどね。 余程の装備と体力がなければ、神でも魔法使いでもない人間に そんなとこができるとは、瞬には思えなかったのです。 「あの……助けてくださって、ありがとうございます。僕は瞬といいます。あなたは――」 「氷河」 金髪の青年の声は、とても ぶっきらぼうでした。 そして、問われたことに答えることしかしてくれませんでした。 『大丈夫か』と尋ねることも、ここはどこで、どうやって瞬を助けたのかを説明することも、彼はしてくれませんでした。 きっと、遭難者を助けたせいで体力を消耗し、疲れ果てていたのでしょう。 そのことで、瞬に恩着せがましいことはしたくなかったのでしょう。 事実はどうなのか わかりませんでしたけれど、瞬は そうなのだろうと察しました。 「氷河……さん? どうもありがとうございます。もしかして、氷河さんも お城に行こうとしていたの? ここはどこ? お城は まだずっと上ですか?」 「“さん”はいらない。城に行こうとしていたわけじゃない。城に行こうとする無謀な奴を思いとどまらせるために、ここにいる。ここは、王城のあった丘の途中にあった東屋の中の一つ。山の2合目。城は まだずっと上。命が惜しいなら、登るより、山を下りた方がいい」 氷河は、本当に――いっそ見事と言いたくなるほど、尋ねたことにしか答えてくれませんでした――尋ねたことには答えてくれました。 ならば、彼は、瞬の知りたいことを教えてくれるでしょうか。 瞬の知りたいこと。 それは、 「氷河さん……氷河は、お城に行く道を知っているの? 知っているなら、教えてください」 ということでした。 氷河が初めて、問われたことへの答えではない答えを返してきます。 「俺の言ったことを聞いていなかったのか? 俺は、城に行こうとしている奴等を止めているんだと言ったろう。城に行くのは諦めろ。岩登りに慣れた屈強な男たちでも無理だったんだ。おまえの その細い身体では、なおさら無理。無謀もいいところだ。また氷の壁に阻まれて死にかけるだけだ。そうなっても、俺は もう助けないぞ」 氷河は どうやら、氷の山の頂に建つお城に行こうとする人間を引きとめ 助けるために、この辺りを見まわっている人のようでした。 なんて親切な人なんだろうと思うと同時に、瞬は落胆もしたのです。 それは つまり、氷河ほど この山の様子を知っていて、山登りの技術や体力を備えた人でも、お城の建つ場所に至ることはできない――ということですからね。 けれど 瞬は、だからといって 諦めて山を下りるわけにはいきませんでした。 「誰かが女王様のところに行って、雪と氷を溶かしてくださいって、お願いしなきゃならないの」 「ならば、屈強な大人の男が行くべきだ。おまえはまだ子供だし、こんなに綺麗なのに、死に急ぐことはない。ここから上に向かうのは、死にに行くようなものだ」 そうなのかもしれません。 氷壁に宙吊りになっていた瞬を助けることができるほどの人でも辿り着くことのできない氷のお城。 でも、やはり瞬は、ここから引き返すことはできなかったのです。 「力のある大人の人は、自分の家族を守らなきゃならないの。それに……いつ凍えて死ぬかわからないから、きっと できるだけ家族の側にいたいんだと思う。でも、僕は一人だから――」 いいえ。 一人ではありませんでした。 瞬の帰りを待っている子供たちが 大勢います。 でも、だからこそ。 だからこそ、瞬は引き返すわけにはいかなかったのです。 家族のいる人は、家族の許で家族を守らなければならない。 家族のない瞬は、世界を、すべてを、守らなければならない。 それも、なるべく早く。 ヒュペルボレイオスの国が滅んでしまう前に。 「助けてくれて、ありがとうございました。僕は行かなきゃ」 しばらく風をしのげるところにいたので、瞬の凍えていた身体は 少し温かさを取り戻していました。 手足もちゃんと動きます。 瞬は前に――いいえ、上に――進まなければなりませんでした。 その場に立ち上がった瞬を、氷河が睨んできます。 「俺は、止めたぞ」 「うん。ありがとう。心から感謝します。何も お礼ができなくて ごめんなさい」 お礼は、このヒュペルボレイオスの国を 元の“世界一 幸福なヒュペルボレイオス”に戻すことで。 言葉にはせず、心の中で そう告げて、瞬は巨大な雪洞のようになっていた東屋の外に出ました。 途端に、乾いた粉のような雪を乗せた冷たい風が 瞬の顔や身体に勢いよく ぶつかってきます。 もちろん、瞬は 怯みませんでしたよ。 瞬の身を気遣って止めようとしてくれた人の制止を振り切って、もう一度 氷の山に挑むことを決めたのです。 たかが吹雪に怖気づいて 引き返すことなどできるわけがないではありませんか。 氷釘を手に取り、瞬はそれを氷の壁に打ちつけようとしました。 あのつらい作業の繰り返しの再開です。 まだ山の2合目。 目的地は、はるか遠く。 そう考えて、瞬が気を引き締めた時でした。 「この氷壁は、ここより上は垂直に登るのは無理だ。上に行くほど氷が せり出して、この上は氷の岩棚になっている。遠回りでも、右手に向かって 螺旋を描くように進んだ方がいい。雪は深いが、歩いて行ける」 「氷河……」 この寒さの中で泣いたりしたら、涙が凍って大変なことになります。 それでも瞬は、嬉しくて泣きそうになりました。 瞬よりずっと この山のことを知っているらしい氷河の助言なら、きっと確かなものでしょう。 「氷河、ありがとう。僕、きっと お城に辿り着いて、女王様に雪と氷を消してもらうよ。元のヒュペルボレイオスに戻してもらうよ!」 「……」 瞬に助言はしたものの、それは叶わぬ夢だと 氷河は考えているのでしょうか。 氷河は、自分の助言を悔やんだような目になり、再び、 「危険だから、帰れ。本当に命を落とすぞ」 と、瞬に忠告してきました。 氷河の親切は、かえって瞬の決意を強く固いものにしただけでしたけれどね。 「女王様に魔法を解いてもらえなきゃ、帰っても、そこで死んでしまうだけだよ」 「頼んでも、聞いてもらえないと思うぞ」 「そんなことないよ。女王様は、きっと何か悲しいことがあって、他のことを考えられなくなってるだけだよ。自分の国をこんなふうにして、女王様の得になることは何もないんだもの」 「悲しいこと……悲しいこと、ね」 瞬に 瞬の進むべき道を示して、瞬の再挑戦を快く見送ってくれるだろうと思った氷河は、けれど そうしてくれませんでした。 彼は、王城のある山の頂に向かって、瞬と一緒に歩き出してくれたのです。 『危険だから帰れ』と、『ここから上に向かうのは、死にに行くようなものだ』と言っていたのに。 冷たい風。 冷たい氷。 冷たい世界。 なのに、なぜでしょう。 氷河と一緒だと、ちっとも冷たくないのです。 少しも恐くないのです。 雪に足を取られて転ぶと、差しのべられる氷河の手。 正面からの風が強くて息ができなくなると、瞬の前に立って 風よけになってくれる氷河の背中。 瞬は、氷河と一緒だったら、世界の果てまで歩き続けることだってできるような気がしました。 どんな つらさも 痛みも 悲しみも 寂しさも、氷河と一緒だったら、それらは きっと乗り越えることのできる楽しい試練でしかないような――そんな気持ちになっていったのです。 氷河と一緒に進む道は、瞬には、強力な魔法の力を持つ魔女が待ち受けている氷の城に向かう道ではなく、暖かい春の城に続く道のように感じられました。 そうして辿り着いた氷の山の頂に建つ氷の城は、美しいことは この上もないのに、春の花一つ咲いていない、冷たく寂しく悲しい お城でしたけれど。 |