三ヶ月に一度、定期的に行なっているナターシャの健康診断。 その診断結果の書類を受け取り、診断結果の説明を聞くために、氷河が わざわざ瞬の勤務する光が丘病院に出向いたのは、瞬が勤務先の同僚医師にも看護師にも患者にも 妙な色目を使われることなく、健全かつ健康的に職務を遂行することができているのかどうかを確認するため。 いわゆる、自主的かつ個人的な職場参観のためだった。 ナターシャの身体を他の医師や看護師に見せるわけにはいかないので、ナターシャの健診は血液採取からMRIまで、すべてを瞬が一人で行なっている。 その上、瞬は、健診受診者の健康面に問題はないと、ナターシャの健診結果を事前に口頭で氷河に知らせていた。 わざわざ健診のたびに氷河が来院して結果の説明を聞く必要はないと、瞬は 常々 氷河に言っていたし、事実もそうだったろう。 だが、氷河は 決して瞬の職場参観をやめようとはしなかった。 氷河にも(一応)言い分はあったのである。 瞬は客として いつでも氷河の職場に彼の仕事ぶりを見学に行くことができるが、健康すぎる氷河は そうはいかない。 氷河は、ナターシャの健康診断を口実にしなければ、防犯対策、セキュリティ対策の堅固な今時の病院を あちこちチェックしてまわることはできないのだ。 なぜ チェックが必要なのかという問題は さておいて、幼児の健康診断は 子供の保護者への医師による結果説明と保健指導までがセットになっていたので、毎回 病院にチェックにやってくる氷河を、瞬も拒絶することはできずにいた。 その日、瞬が病院を出たのは午後5時。 心行くまで(といっても、セキュリティ上 許される範囲内でだが)瞬の職場参観を行ない、院庭で待っていた氷河と合流して、瞬が ロシア料理店に向かったのは、氷河が病院にいた間、ナターシャを預かってくれていた吉乃に夕食をご馳走するため。 予約の時刻に5分ほど遅れて 氷河と瞬が店に入っていくと、吉乃とナターシャは先に店に来て、既にテーブルに着いていた。 「吉乃さん、いつもすみません。ナターシャちゃん、いい子にしてた?」 4歳から子供の入店可の そのレストランでは、子供用の椅子も用意されている。 ナターシャは 騒がず静かに お行儀よく その椅子に座っていたが、残念なことに、吉乃の方は あまり お行儀がよろしくなかった。 「瞬先生、聞いて! 私、今日、信じられない人に会ったんです! 今時、あんな古典的な嫌がらせをする人がいるなんて、紫式部もびっくりですよ!」 氷河と瞬が席に着くのも待ちきれないと言わんばかりの勢いで、吉乃が大声で瞬に訴えてくる。 「嫌がらせ?」 突然、やたらと元気な声で、思いがけない単語を聞かされて驚き、瞬が瞳を見開く。 吉乃は、やはり やたらと元気に勢いよく、ぶんぶんと首を上下に振った。 「ええ、嫌がらせ。私、せっかく ご馳走になるんだから、うんと おなかを空かせてから お店に来ようと思って、ナターシャちゃんと光が丘公園で遊んでから、ここに来たんですよ。そこで、ナターシャちゃんに足を引っ掛けて転ばそうとした、ヤーな女に遭遇しちゃったんです! 性格、悪すぎ! サイテー!」 ディナーには少し早い時刻だったので、店内に客は少なかった。 テーブルに着いているのは、瞬たちの他には まだ2組のみ。 吉乃の支離滅裂な報告に驚く客が少なかったことを喜ぶべきか、客が少なかったせいで 吉乃の声がフロアの隅々にまで行き渡ってしまったことを申し訳なく思うべきなのか。 いずれにしても、吉乃の第一報の直後から 店内にラフマニノフのピアノ曲が流れ出したのは 偶然ではなかっただろう。 そんな店内での、吉乃の続報によると。 今日、吉乃は、ナターシャを預かると、パパの国の歌を歌えるようになりたいというナターシャのリクエストに応えて、某カラオケルームに乗り込んでいったのだそうだった。 そこで 思い切り歌を歌い、その弾みで つい、ポテトとオニオンリングを食べすぎてしまったので、夕食前に運動をして おなかを減らすことにした。 ひとしきり遊んで、ほどよくおなかも空き、これで準備万端。 待ち合わせのレストランに向かうべく、吉乃とナターシャは 公園の出口に通じる小径を 二人 並んで歩き始めた。 その道の脇のベンチに一人の女性が座っていたのだが、その女性は ナターシャが彼女の座っているベンチの前を通るタイミングを見計らったように、ふいに足を前方に のばして、足で通せんぼをした。 おかげで、ナターシャは 危うく転ぶところだった――らしい。 吉乃の剣幕に驚いて、料理を運んでいいのかどうかを迷っている様子のウェイターに、瞬が合図を送ったのは、空腹が満たされれば、吉乃の怒りも 少しは治まるかと考えてのことだった。 瞬の期待を裏切って、前菜のテリーヌにぱくつきながら、吉乃の怒りはますますエスカレートしていったが。 「も、あれは 絶対、男にモテないタイプ!」 なぜそういうことになるのかは、瞬にはわからなかったが、吉乃の中では、それは理の当然のことであるらしい。 力強く断言する吉乃を、瞬は今度は微笑で なだめようとしたのである。 微笑んで、意識して穏やかな声で、瞬は吉乃に告げた。 「偶然でしょう。その時たまたま、足を伸ばしたくなっただけで」 「あれが偶然のはずない! そんなはずない! タイミングよすぎだったもの。私とナターシャちゃんは お話しながら歩いてたし、私たちが近付いていることは、あの女には絶対に わかってたはずなんです!」 「でも、知らない人だったんでしょう?」 見ず知らずの女性が 見ず知らずの子供を転ばせて、どんな益があるというのか。 瞬の疑念に、しかし、吉乃は明白な(彼女にとっては 明白な)答えを持っていた。 「あれは、きっと、男に振られた直後で、誰かに嫌がらせをしたかったんですよ! ナターシャちゃんが可愛いから、ナターシャちゃんに嫌がらせして、鬱憤晴らしをしようとしたに決まってます! ナターシャちゃんみたいに可愛い子は、一生 オトコに振られることはないんだろうとか、そんなこと考えて、勝手に妬んで 勝手に僻んで、それで あの女は あんな せこい嫌がらせをしたんです!」 「えーと、それは……」 いっそ見事というしかないほど、断固とした決めつけ。 いくら何でも、それは想像力が豊かすぎる。 吉乃は 将来 造形関係の芸術分野に進みたいという希望を持っているらしいが、むしろ 彼女は小説家か脚本家に向いているのではないかと、そんなことを瞬は思った。 「もし失恋の鬱憤晴らしで、可愛らしい様子の人に意地悪をしたかったのなら、ナターシャちゃんより吉乃さんの方に意地悪するでしょう」 考えすぎだと言う意味で、瞬はそう言ったのだが、瞬のその言葉は 火に油を注ぐことになってしまった。 吉乃の怒りは、瞬のその言葉のせいで、更に激しく燃え上がってしまったのだ。 「そうじゃなかったから、怒ってるんじゃないですか! 私を飛び越えて、ナターシャちゃんに嫌がらせしたから! あのヤーな女が足を引っ掛けてきたのが、ナターシャちゃんじゃなく私だったら、もてない女が 若くて可愛い私に嫉妬したのねって思って、私は機嫌よくしてますよ!」 「……」 謙虚なのか、傲慢なのか。 吉乃の発言は、微妙すぎて、瞬には判断が難しかった。 吉乃は つまり、若さや可愛らしさにおいて、自分は“ヤーな女”に勝るが、ナターシャには劣ると考えている(のだろう)。 不可思議な吉乃の謙虚(おそらく)。 吉乃の主張は、瞬なら絶対に辿らない思考回路を経て構築されていた。 だが、そういう考え方をする吉乃を、瞬は好ましく思ったのである。 吉乃がこれほど立腹しているのは、その“ヤーな”女性が嫌がらせ(と言い切っていいのかどうかは わからないが)をした相手がナターシャだったからなのだ。 「その方、どんな方だったんですか」 たしなめるためではなく、怒りを静めてもらうために、瞬は吉乃に尋ねた。 吉乃が 僅かに眉根を寄せる。 「ドンナカタ……って、20代半ばくらいの、散歩や日向ぼっこ向きじゃない 高そうだけど似合わない服を着た女――だったな」 「……20代半ば? じゃあ、ナターシャちゃんに 好きな人を取られたわけではなさそうですね」 吉乃は 彼女を憤慨させた女性の顔を よく憶えていないようだった。 吉乃らしいと言えば、吉乃らしいことである。 「ナターシャちゃん、転んじゃったの? 膝を擦りむいたの?」 氷河の隣りの席で、真剣な目をして 壺焼きのクリームソースをスプーンで掬っていたナターシャが、その手をとめて、顔をあげる。 ナターシャは、ちゃんと吉乃の話を聞いていたらしい(聞こうとしなくても、聞こえてしまっていただろうが)。 瞬に問われると、ナターシャは首を横に振った。 「ナターシャ、転びそうになったけど、ヨシノがナターシャを抱きとめてくれたんダヨ。ナターシャ、転ばなかったヨ」 「足を引っ掛けられて、前に つんのめったナターシャちゃんを抱き止めようとして、私、咄嗟に手を伸ばしたんです。でも、ほら、私、か弱い乙女だもんだから、力が足りなくて。ナターシャちゃん、私の手を補助台代わりにして、そのまま くるっと宙返りしてみせたんですよ」 「ナターシャちゃんは反射神経がいいからね」 その段になって、次の料理が運ばれてきていたことに気付いたらしい吉乃が、スプーンを手に取る。 そのスプーンを壺焼きのパンの蓋に ぐさりと突き刺して、吉乃は力説した。 「でも、私だったら、べちゃって! べちゃって、転んでますよ! それで、きっと膝小僧を擦りむいてた!」 「その時には、マーマが手当てしてくれるヨー」 「え?」 うら若き乙女が膝小僧を擦りむいているのはいただけないが、うら若き乙女が 若く有能な医師に 擦りむいた膝小僧の手当てをしてもらっている図は、美味しく いただける。 ――とでも考えたのか、吉乃は にわかに まんざらでもないような笑顔になった。 「それは、ちょっと嬉しくて、萌えるかも……」 吉乃には、食べ物よりも萌えの方が効果的な精神安定剤だったらしい。 壺焼きに続くボルシチとビーフストロガノフ、薔薇のジャムのロシアンティまでを、吉乃は笑顔で平らげた。 手土産にピロシキを持たされた吉乃は上機嫌で帰宅。 氷河は、そこから直接、自分の店に向かったのである。 そうして。 |