翌日、帰宅した氷河に、瞬が、
「氷河、最近、誰か女の人に冷たくした記憶ある?」
と尋ねたのは、それが、うら若き乙女であるところの吉乃の前では訊きにくいことだったから――だった。
「何だ、藪から棒に」
本当に藪から棒を突然 突き出された人間の顔をして、氷河が反問してくる。
どうやら氷河は、吉乃の話を ほとんど聞いていなかったらしい。

「誤解だとは思うけど――吉乃さんが想像力豊かすぎるだけだとは思うけど……吉乃さん、昨日 光が丘公園でナターシャちゃんを転ばそうとした女性は、好きな人に振られた鬱憤晴らしをしようとしてたんだって言ってたから、念のため 確認」
「全く身に覚えがないな」
氷河は、言葉通りに 全く心当たりのない顔である。
だが、瞬は、氷河のその言葉も顔も、簡単に信じるわけにはいかなかった。

「氷河は、無自覚に女性に冷たくするから……」
「俺はおまえと違って、誰にでも愛想よくしないだけだ」
「まるで、誰かには愛想よくしてるみたい」
「してるぞ。おまえとナターシャには」
真顔で(愛想のない顔で)そう主張する氷河に、瞬は 我知らず 溜め息をついてしまったのである。
氷河は、これで 本気で愛想よくしているつもりなのだから、処置のしようがない。

それでも、
「どんな女だったんだ」
と 氷河が尋ねてくるのは、彼なりの愛想なのだろう。
「吉乃さんの話を聞いてなかったの?」
瞬は 氷河のその“愛想”に 呆れることになってしまったが。

吉乃にはナターシャのことで世話になっているし、ナターシャも懐いている。
日光では、ナターシャに制裁を加えようとした顔の無い者から身を挺してナターシャを守ろうとしてくれた。
そんな吉乃の話を『興味がなくて聞いていなかった』とは言えない(彼女が この場にいなくても言えない)。
氷河は、(おそらく)瞬ではなく この場にいない吉乃のために、
「ナターシャが、壺焼きと格闘していたから、その応援に気を取られていた」
という言い訳を口にした。
氷河の その律儀に免じて、瞬が昨日の吉乃の話を繰り返す。

「吉乃さんは、20代半ばくらいの、公園での散歩や日向ぼっこには不似合いな 高そうだけど あまり似合っていない服を着た女の人だったって、言ってたよ。顔は はっきり憶えてないみたいだった。印象の薄い人だったのかも」
「20代半ばくらいで、TPО無視の高そうだが似合わない服を着た、印象の薄い女か。おおよそ 察しがつくな」
「察しがつくの?」
瞬が ほとんど反射的に問い返してしまったのは、興味のない人間に対する氷河の無関心振りを知っているから。
氷河は、瞬の言葉に心外そうな顔を見せた。

「伊達に客相手の仕事をしているわけじゃないんだぞ。人間観察ができないと、その客の好む酒も出せない」
「それは そうだろうけど……」
それは そうだろうが、その女性は氷河の店の客ではないし、氷河は彼女を直接観察したわけでもない。
いったい彼は どう“察し”たというのか。
僅かに首をかしげた瞬に、氷河は 彼が“察し”たことを語り出した。

「顔を憶えていないというのなら、地味な女だったんだろう。もともとの顔立ちも化粧も。目立たなければやっていけない商売をしているわけでもなく、男に金品を貢がせることを趣味や商売にしているわけでもない。にもかかわらず、高そうな服を身に着け、公園のベンチに一人で座っていた」
「そうみたい」
「誰かと待ち合わせをしていたのではないだろう。足を引っ掛けて 子供を転ばそうとするなんて、そんな場面を知り合いに見られて、いいことは一つもないからな。中身は地味、化粧も地味、高そうな服だけが印象に残っている女」
「そこから何が導き出せるの、名探偵さん」

からかうような口調になったのは、瞬が かの名探偵ホームズの女性一般への辛辣な評価を思い出したからだった。
シャーロック・ホームズは女性嫌いということになっているが、それでも 彼は(彼の嫌いな)女性というものを無視することなく、彼なりに しっかり女性を観察している。
名探偵にとって、“女性”は“いつ事件の関係者になるかもしれない人間”で、だから、観察に値する存在なのかもしれなかった。
氷河にとっての“店の客”と同じように。

「当人が自覚しているかどうかは わからんが――自分に自信を持てていない女だろう。自分を大した価値のない人間だと感じている女。だから、高い服で自分を飾ろうとするんだ」
名探偵は、いささかの淀みも迷いも見せずに滔々(とうとう)と、自身の推理を披露してくれた。
「気に入ったものが、たまたま有名ブランドのものだったのではなく、たまたま高価だったわけでもなく、有名ブランドのものだから、高価なものだからという理由で、服やバッグを買う人種がいる。高い代金を払って、値札や商標を買っているような人間だ。高価なものを欲しがるのは、自分に それだけの価値がないことが わかっているから。でなければ、薄々 そう感じているから。だから、高価な物で自分を飾ろうとするんだ。そういう人間は、服やバッグや時計だけでなく人間も、一緒にいると他人に羨ましがられる人間を好む。外見、学歴、収入――結婚詐欺に引っ掛かりやすいタイプだ」
「……」

吉乃の想像も 感性に頼った(論理を超越した)ものだったが、氷河の推理も かなり奔放である。
吉乃は、問題の女性を“男に振られた直後”と推察し、氷河は“結婚詐欺に引っ掛かりやすいタイプ”と推理する。
“振られた”にしろ、“結婚詐欺の被害者”であるにしろ、二人は、問題の女性が 男性のせいで平常心を欠いていたのだろうと 言っているのだ。
二人の結論が 似た地点に至るのは、興味深いところではあった。
だからといって、瞬は 二人の推論の結果を信じる気にはなれなかったが。
たとえ二人の推察が正鵠を射たものであったとしても、だからといって、そんなことの鬱憤晴らしのために、幼い少女に足を引っ掛けて転ばそうとする大人が存在するなどということは、瞬には とても考えられないことだったのだ。

「おまえが気に掛けるような人間ではないな。二度と会うこともないだろうし、忘れていい相手だ」
「ん……」
氷河が関係していないのであれば、瞬も そうしたい。
だが、氷河は、本当に自覚なく人に冷たく接することがあるので、氷河の言う通りに、このまま“忘れていい”のかどうかを、瞬は決しかねていた。
そこに、
「パパ、マーマ、オハヨー!」
と、元気いっぱいのナターシャが飛び込んでくる。

ナターシャは最近、着換えだけでなく、髪も自分の手で結ぶようになっていた。
大抵の場合、ナターシャが結んだ髪は微妙に左右のバランスが崩れているのだが、氷河は ナターシャが作り出す そのアンシンメトリーをさえ、芸術的才能ゆえと思っている節があった。
ナターシャが左右対称に髪を結べるようになれば、その時には 彼は 彼の愛娘の優れたバランス感覚に悦に入るに違いない。

「ナターシャは、昨日 公園で転びそうになった時、咄嗟に 宙返りをしたそうだな。さすがは俺と瞬の娘。可愛いだけでなく、反射神経も抜群だ」
パパに褒められたナターシャは、満面の笑み。
彼女は 得意げに、力いっぱい氷河に頷いた。
「ナターシャは、お洋服を汚しちゃいけないって思ったんだヨ!」
「クリーニング代も浮いた。ナターシャは可愛くて 反射神経が抜群なだけでなく、経済観念も発達している」
「ケーザイカンネンってナニー?」
「高い金を出して 似合わない服を買ったりしないということだ」

とにかくナターシャを褒めることができれば 何でもいい氷河が、無茶苦茶な説明をする。
ナターシャは、氷河のその説明では“経済観念(が発達している)”の意味が、今一つ理解できなかったようだった。
ナターシャにとっては、“似合わない服を買わない”のは、経済観念を発動させるまでもなく 当たり前のことだったから。

「ナターシャ、パパにカワイイって言ってもらえる お洋服しか買わないヨ!」
きっぱり断言してから、瞬の顔を見て、ナターシャは すぐに、
「キノウセイとアンゼンセイもジュウシするヨ!」
の一言を付け加えた。
氷河がナターシャを絶賛したがる気持ちは、瞬にも わかるのである。
ナターシャは確かに、氷河の絶賛に値する娘だった。
「ナターシャちゃんは とっても お利口だね」

ナターシャは、シャネルの服だからという理由でシャネルの服を買うことはなく、エルメスのバッグだからという理由でエルメスのバッグを買うことはないだろう。
昨日の出来事は、ナターシャの優れた反射神経と経済観念を確認するためのイベントだったのだと結論づけて、瞬は 印象の薄い女性のことは忘れることにした。






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