次に、印象の薄い女性の話を、瞬の許に運んできたのは蘭子だった。
パパの お仕事の応援に行きたいというナターシャと共に、開店前の氷河の店に職場参観に赴いた瞬は、そこで蘭子から、昨夜 この店にやってきた“変な客”の話を聞かされたのである。
蘭子は、その客が気に入らなかったらしい。
彼女は、
「サイドカーを、VSOPのブランデーベースで――ってオーダーしたんだけど、なーんか、似合わないのヨ。こう……初めて入るバーで見栄を張るために、値段の張るカクテルを調べてきました――って感じ」
と、その女性を評した。

「バーに慣れてないのが明白だったから、氷河ちゃんが 親切心から、もう少し安いものにオーダーを変えさせようとして、サイドカーは強い酒だって言ってあげたのよ。そしたら、あのオンナ、客のオーダーに文句をつけるのかって騒ぎだしたの。サイドカーを作れないから、そんなこと言うんだろうって、馬鹿なこと言い出して……。サイドカーのレシピを知らないバーテンダーなんているわけないじゃない!」
蘭子の憤慨は至極尤も。
メニューにナポリタンのないイタリアンレストランはあっても、サイドカーの出ないバーは、世界中探しても一軒もないだろう。
その女性客の発言は、正しく言い掛かりだった。
本気で そんなことを言ったのなら、その女性客は バーというものを知らない人間と言っていい。
――が。

「それは……でも、本当にサイドカーがお好きだったのかもしれないでしょう。氷河の気遣いが余計な お節介だったのでは――」
氷河の店に来てくれた客を一方的に責めるのも心苦しく、瞬は彼女の弁護を試みたのである。
瞬の弁護は、だが、検事の反対尋問に あっけなく粉砕されてしまった。

「そんなことない! 服は似合いもしないシャネルを着てたけど、あの靴、あの爪、とても経済的に余裕があるようには見えなかったわ。わざわざ高いブランデーをベースに指定してサイドカーを頼むなんて、見栄を張るために無理したに決まってる。それは断言していい。っていうか、あの女、それ以前に、そもそも酒に慣れてない感じだった。あれは、居酒屋でビールや 薄いサワーしか飲んだことのない人間よ。仕方なく氷河ちゃんが作って出したサイドカーにむせてたし」
「サイドカーにむせて……?」
それは、なかなか弁護が難しい。
蘭子の推察は、全くの的外れではないのかもしれなかった。
サイドカーを提供していないバーはないだろうが、サイドカーがメニューにない居酒屋は多いだろう。

「そんなふうなのに、前にリッツのバーで飲んだのと味が違うとか、馬鹿げた いちゃもんをつけてくるの。あれは、絶対 飲んだことないって。そもそも サイドカーのベースのブランデーは店ごとに違うんだから、味が違うのは当たり前。リッツのバーより氷河ちゃんの作るカクテルの方が美味しくて1000円は安いんだから、この店は超良心的って、客の振りして言ってやったわ!」
吉乃が、公園の女性に憤慨していたのは、彼女が足を引っ掛けて転ばそうとした相手が、自分ではなくナターシャだったから。
同様に 蘭子の立腹も、問題の女性客が侮辱した相手が 蘭子自身ではなく蘭子の店のバーテンダーだったから。
そう思うと、瞬も、それ以上は何も言えなかったのである。
黙ってしまった瞬に代わって口を開いたのは、氷河だった。

「瞬。おまえ、いつもの調子で、どっかの女に変な期待を抱かせるほど親切な真似をしてやったんじゃないのか?」
「え?」
「それで、おまえといる俺に嫌がらせをしようとして、俺の勤め先を突きとめ、乗り込んできた」
それが、名探偵 氷河が 彼の優れた推理力を働かせて辿り着いた結論らしい。
氷河の推理は、今日も 驚くべき論理の飛躍力を見せてくれた。
「僕は医者だよ。医者として為すべきことをする。患者さんに不安を抱かせないように」
それを“変な期待を抱かせるほど親切な真似”と言われたら、医者は誰も医者の務めを全うできなくなってしまうではないか。

「吉乃が言ってた女と条件が合致する。同じ女だとしたら、その女が ナターシャに嫌がらせをして、俺の仕事に いちゃもんをつけてきたことになる。おまえが原因のトラブルに決まってるだろう。おまえが誰にでも愛想よくするから、こんなことになるんだ」
氷河は、飛躍力だけでなく、論理の連結力にも恵まれているらしい。
彼は、彼の先日の推理と今日の推理を(おそらく確たる根拠もなく)結びつけてしまったようだった。

「それこそ、言い掛かりです!」
根拠の存在しない非難は 推理ではなく、言い掛かりである。
そんなことで 無実の罪を着せられては たまったものではない。
つい 声を荒げてしまった瞬に冷静さを取り戻させてくれたのは、
「パパ。みんなに愛想よくしちゃいけないノー?」
という、ナターシャの素朴な疑問だった。
氷河が難しい顔になる(彼は いつも難しい顔をしているのだが)。

「愛想よくしてはいけない人間もいるということだ。瞬のように綺麗な人間や、ナターシャのように可愛い子は、愛想よくする相手を選ばなければならないんだ。でないと、自分に親切にしてくれたのは、特別に好きだからなんだと誤解して、俺から瞬やナターシャを取ろうとする不心得者が出てくるかもしれない」
「フココロエモノってナニー?」
「頭の悪い悪者という意味だ」
「フココロエモノが来て、パパからマーマやナターシャを取ろうとしても、マーマとナターシャは 絶対にパパと一緒にいるんだから、ムモンダイだヨー」

ナターシャは、なぜ そんなことでパパがマーマを責めているのか わからないという顔で、パパ特製マンゴースムージーの入ったタンブラーを小さな二つの手で握りしめている。
さすがの名探偵も、確かな経験則に裏打ちされたナターシャの推理には、異を唱えることができなかったらしい。
氷河は、
「……それはそうだ」
と呟いて、そのまま口をつぐんでしまった。
こういう場合のお約束『さすがは俺と瞬の娘だけあって、ナターシャは賢い』が出てこないのは、ナターシャへの賛辞より言いたい言葉があったから。

「『だが、不愉快だ』、でしょ」
蘭子が、代わりに その言葉を口にする。
氷河のリアクションを待たずに、蘭子は瞬の方に向き直った。
「でも、その地味な女が同一人物で、ナターシャちゃんに意地悪して、氷河ちゃんの仕事に いちゃもんをつけてきたんだったら、原因は やっぱり 瞬ちゃんなんじゃないの?」
まさか蘭子に 正面切って反論するわけにはいかない。
瞬は、嘆息混じりに、
「心当たりはありません」
と応じた。

「瞬ちゃんみたいに、常に品行方正、誰にでも愛想がよくて親切でも、恨まれる時には恨まれるものだから」
「じゃあ、どうすればいいんですか……」
ナターシャと氷河に降りかかった災難の原因が 自分にあるとは思わなかったが(思いたくなかったが)、では 人は 自分の家族を守るために どう振舞えばいいのか。
蘭子も肩をすくめるほどの難題に、
「俺を見習って、常にクールにしていればいい」
氷河が自信満々の(てい)で回答を提示してくる。
「冗談は顔だけにして」
瞬は ほとんど反射的に、氷河の回答を一蹴した。

氷河は 瞬のその反射的行動に かなり驚き、息を呑んだ――ようだった。
ややあってから、
「俺の顔が冗談? 生まれて初めて言われた」
と、独り言のように呟く。
それは、瞬にとっては ひどく意外な発言だった。

「そうなの?」
「顔に関してだけは、言われたことがなかった」
「あ、そういう意味」
それは全く自慢にならない。
つまり、氷河は、顔以外のことに関しては言われ放題なのだ。
おそらく、星矢や紫龍や 瞬の兄によって。

「パパの顔は冗談ナノー?」
『顔が冗談』というフレーズの意味するところが わからなかったのだろうナターシャが、真面目な顔で問うてくる。
“ナターシャのマーマが ナターシャのパパの顔を非難した”という状況をなかったことにするために、瞬は慌てて、ナターシャのための微笑を作った。
「氷河の顔は綺麗で華やかで、見てると嬉しくて楽しくなるっていうことだよ」
「ソッカー。パパの顔はキレイでハナヤカで、嬉しくて楽しくなるから、冗談なんダー!」
ナターシャは、瞬の説明で 嬉しそうに納得してくれた。
パパが褒められているのなら、ナターシャには何の文句もないのだ。

氷河は そんなナターシャと違って 瞬の説明に不満たらたらのようだったが、瞬は それは無視した。
瞬には、そんなことより もっとずっと気になることがあったのだ。
もちろん、公園で吉乃とナターシャが出会った女性と、氷河の店に やってきたサイドカーの女性のことである。
いったい 彼女は何者なのか。
氷河の推理通り、その二人は実は同一人物なのか。
それとも これはただの偶然。二人の女性は全くの別人で、たまたま それぞれに自己主張をしない面立ちの持ち主で、たまたま それぞれに虫の居所が悪く、たまたま それぞれに瞬の家族に嫌がらせをした形になってしまっただけなのか。

「氷河、本当に心当たりはないの?」
念のために、瞬が確認を入れると、氷河は、
「昨夜 初めて見た顔だ」
と断言してきた。
他人に興味を持つことのなかった十代の頃はいざ知らず、接客業に従事するようになってからの氷河は、彼の相貌記憶力を ちゃんと行使するようになっている。
氷河が『会ったことがない』と言えば、それは事実なのだ。
ナターシャと氷河の身に降りかかった災難は偶然か、意図的なものなのか。
瞬が探偵の真似をするには、現時点では、あまりに判断材料が少なすぎた。






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