光が丘公園は、都内でも屈指の桜の名所。 桜の花の季節には 花見客が怒涛の勢いで押しかけてくるが、その騒ぎが終わったあとの葉桜もまた、爽やかで美しい。 その日、瞬たちが光が丘公園に向かったのは、花ではなく緑を楽しむためだった――建前は。 建前でない方の目的は、最近 この光が丘公園にアイスクリームの移動販売車が出没し、桜餅味のジェラートが人気を博しているという噂を聞きつけた吉乃が、それを食べてシュラに自慢したいと言い出したから。 広い光が丘公園の どこに現れるかわからない移動販売車を探す人間は多い方がいいと言われ――つまり、瞬たちは 吉乃の桜餅味アイスクリームの捜索に駆り出されたのだった。 「ナターシャちゃん」 芝生広場の入り口で 吉乃の姿を探していたナターシャ一家に声を掛けてきたのは、彼等が探していた吉乃ではなく、一人の老婦人。 「おばちゃん、こんにちはー!」 70歳は超えているのだが、ナターシャは彼女を『おばあちゃん』とは呼ばない。 初めて会ったのは、ちょうど1ヶ月前。 公園で倒れていた彼女を助けたことがあり、その後も2度ほど 瞬たちは この公園で彼女と顔を会わせていた。 1ヶ月前の彼女の不調の原因は 栄養失調。 1年ほど前に 癌で配偶者を亡くし、それ以来 料理をする気力もなくなって、毎日 簡単なものばかり食べていたために、そんなことになったようだった。 倒れていた彼女を助けた時には、驚くほど顔に生気がなかったのだが、今日は彼女は笑顔だった。 しかも、かなり明るい。 「あれから、お加減はいかがですか?」 「おかげさまで、すっかり元気になりました」 瞬が尋ねると、彼女は掛けていたベンチから立ち上がり、確かな足取りで瞬たちの前までやってきて、ナターシャの頭を撫でた。 「あの時は、ナターシャちゃんのカッコいいパパにお姫様抱っこで救護室まで運んでもらって、年甲斐もなく どきどきして――。倒れたおかげで、かえって若返って元気になったみたい。老人クラブの合唱団でボーイフレンドを作ったんですよ。そろそろ うちの人も許してくれるだろうと思って」 「それは素敵ですね」 家事万端をこなしていた妻君を亡くして、日々の暮らしが なおざりになり気力を失う夫は多いが、夫君を亡くして 気力を失う妻は、実は滅多にいない。 それほど愛していた夫君を失った彼女の向後を、瞬は案じていたのだが、どうやら彼女は立ち直ってくれたようだった。 これからコーラスの練習だという老婦人と別れてから、瞬は安堵の息を洩らしたのである。 そして、一つの小さな出来事を思い出した。 「そう言えば、彼女を助けた翌日に、病院の ご意見箱に投書があったんだよ。医師が 院の外で医療行為をするのは 違法なんじゃないかって」 「なに?」 「あ、法的には 全く 問題はないから安心して。投書してくれた方は、医療行為の定義を誤解してるようだったし、あれが医療行為だったとしても、医師には 緊急時には それをすることが許されてるから。でも、僕への意見なんて、これまで好意的なものしかなかったから、事務長さんが驚いて教えに来てくれて――院外でも注目されてるようだから、ストーカーに気をつけてって。その投書、匿名だったけど、女性の字で――」 のんびりした口調で語っていた瞬は、そこまで言ったところで初めて、氷河が眉を吊り上げていることに気付いたのである。 氷河の怒りの訳がわからず 言葉を途切らせた瞬を、氷河が苛立った声で怒鳴りつけてくる。 「おまえも ちゃんと嫌がらせを受けているんじゃないか!」 「ちゃんと嫌がらせって……。氷河、その投書をした人が、例の女性だと思ってるの? でも、そうと決めつける根拠はないし、ほんとに ただの誤解で、正義感からのことだったのかもしれないし……」 「何が正義感だ! 俺に敵意を抱く奴なら いくらでもいるだろうが、ナターシャに害意を抱いたり、おまえに不利になるようなことするなんて、普通の感覚を持った人間のすることじゃないぞ! そんな人間が そうそういるわけがないだろう! その投書をした奴は異常で危険だ。俺は、自信を持って断言する!」 「そんなことに自信を持たないで」 氷河の剣幕に驚いた瞬が、彼を なだめようとしたところに、 「ナターシャちゃーん! 桜餅味のアイスクリーム、ゲットー!」 という吉乃の声が響いてくる。 両手に2つずつアイスクリームのコーンカップを持って、瞬たちのいる方に遊歩道を歩いてくる吉乃の得意顔。 その姿が、芝生広場から 遊歩道にふいに飛び出てきた女性の身体に遮られ、 「やああぁん、私の桜餅アイスがーっ!」 「ちょっと! このスーツ、シャネルなのよ!」 「何がシャネルのスーツよ。急に遊歩道を横切ろうとするなんて、危ないでしょ!」 という二人の女性の罵声が飛び交い、最後に、 「あーっ、あの時の 足引っ掛け女!」 と、吉乃が ひときわ甲高い声を周囲に響かせるまで、正味1分。 「え?」 どうやら 顔を憶えられているとは思っていなかったらしいシャネルのスーツの女性が たじろぎ、もはや 食べられるものではなくなったアイスクリームを放棄した吉乃が、 「逃がさないっ!」 と叫んで、シャネルのスーツの腕を掴みあげるまでが、更に10秒。 「何よ、逃がさないって!」 “印象の薄い女”という触れ込みだった女性が、なかなか派手に力強い響きの声で噛みついてくる。 「……サイドカーにむせた女だ」 氷河の呟きは、二人の女性に比べれば はるかに地味な声。 「……もしかして、僕の病院に投書したのも……?」 瞬の疑念の提示も、ごく控えめ。 「何よ、何よ! それくらいしたっていいでしょっ!」 吉乃に捕まっている“印象の薄い女”の反駁の方が、よほど派手で豪快なものだった。 その派手で豪快な声が、芝生広場に響き渡る。 「じゃあ、あなたが……」 不特定多数の人間に注目されることには慣れているが、それは 大抵 憧憬や羨望の眼差しで、公共の場で騒ぎを起こしている者に向けられる畏怖嫌厭の眼差しではなかった。 こんなことで人様の注目を集めることは避けたい。 できれば、場所を移動して。 そう考えた瞬は まず、ナターシャの身柄の確保に動こうとしたのである。 ナターシャは、吉乃が遊歩道の上に放棄した桜餅アイスクリームの前に しゃがみ込んでいた。 大人たち(主に女性陣)の騒ぎをよそに、ナターシャは何をしているのか。 ナターシャは そんなに桜餅アイスクリームが食べたかったのか。 だとしたら、アイスクリームの移動販売車が移動してしまう前に 掴まえなくては――と思いながら、瞬は しゃがみ込んでいるナターシャの側に歩み寄っていったのである。 ナターシャが、大人たち(主に女性陣)の騒ぎを無視して見詰めているものの正体は すぐにわかった。 「マーマ、もうアリさんたちが来たヨー。アリさんたち、アイスクリームが大好きなんダネ。アリさんたち、すごいネ」 ナターシャは、食べられなくなったアイスクリームを未練がましく見詰めていたのではなかったらしい。 思わず 気が抜けて――瞬は平静を取り戻した。 |