「ん?」
老人は、突然 ナターシャに話しかけられて、ひどくびっくりしたようだった。
突然 話しかけられたから びっくりしたのか、ナターシャに話しかけられたから びっくりしたのか、それは名探偵ナターシャにも わからなかったのだが、とにかく老人はびっくりしたようだった。
もとい。ナターシャは、老人が びっくりした訳がわからなかったのではない。
ナターシャは、老人がびっくりした訳を、気にしなかったのだ。
ナターシャには、そんなことより気になることがあったから――老人が 買ったビールに全く口をつけていないことの謎の方が ずっと気になったから。

「お酒は、出されて すぐに飲まないと、味が変わっちゃうんダヨ。パパがそう言ってた」
「パパ? パパというのは――」
「ナターシャのパパは おいしいカクテルを作る お仕事をしてるんダヨ。カクテルは、作った直後が いちばんおいしくて、時間が経つにつれて 味が変わっちゃうんダヨ」
「そうなのか? お嬢ちゃん、よく知ってるね。でも、これはカクテルじゃなくてビールだから――」
「ビールもおんなじダヨ。ビールは あわあわの炭酸だから、飲まないでいると気が抜けて、ぬるくなって、おいしくなくなるんダヨ。パパが そう言ってた」

『わざわざ 不味くなるのを待ってから、酒を飲む奴の気が知れん』というのが氷河の口癖――といまでは言わないが、2週に1度は、氷河は その不満を口にしていた。
それは、蕎麦が伸びるのを待って、アイスクリームが融けるのを待って、寿司の鮮度が落ちるのを待って、飲食を始めるようなもの。
そもそも、出された飲み物をすぐに飲まず、出された食べ物をすぐに食べ始めないのはマナー違反だと、そういう客に出会うたび、氷河は毎回 律儀に文句を言うのだ。
マナー違反の客当人には言えないので(マナー違反の客当人ではなく、他の客を不快にしないため)、帰宅してからナターシャと瞬に。

「日本人は、出された飲食物に すぐに手を出すのは 欲望丸出しで浅ましいことだと考える人が多いから――。喜んで すぐに食べたり飲んだりしてくれた方が、作った側の人間は嬉しいし、喜ばれていることが わかって、安心できるよね」
氷河を怒らせた客を弁護し、怒っている氷河の気持ちに理解を示し、最後に 瞬が、
「ナターシャちゃんは、『いただきます』を言ったら、すぐに飲んで すぐに食べるようにしようね」
で〆るのが、ナターシャの家の慣例になっていたのだ。
それは さておき。

老人は、ナターシャの意見に頷いた。
頷いてから、彼がビールに口をつけない訳を ナターシャに教えてくれた。
「それはそうだ。だが、私は年寄りだからね。ビールは気が抜けたものの方が 刺激がなくていいんだよ」
老人の その言葉に、今度はナターシャが大きく頷く。
「ナターシャ、わかるヨ。ナターシャ、ソーダやコーラは そのままだと、喉が痛くなるから、アイスクリームを浮かべて飲むノ。おじいちゃんもビールにアイスクリームを浮かべて飲めばいいのに」
「それは考えたことはがなかった。お嬢ちゃんは お利口さんだね」
「ナターシャのパパとマーマも そう言うヨ!」

パパとマーマが言うのと同じことを言うのだから、このおじいちゃんは正直者。
ナターシャは嬉しい気持ちになり、その嬉しい気持ちを笑顔にして表現した。
老人も、ナターシャにつられたように笑顔になる。
目許にできた皺が優しい、人好きのする笑顔だった。
「お嬢ちゃんのパパとママが そう言っているのなら、間違いはないな。お嬢ちゃんはナターシャちゃんというんだね。外国の名前だが、ナターシャちゃんのパパとマーマは外国の人なのか?」
「ウン。ナターシャのパパはロシアの人ダヨ。北の方にある大きな国ダヨ」
「ロシアの人か。どんな人だい? 優しい? それとも、おっかないパパかな?」
「ナターシャのパパは トッテモ優しいヨ。優しくて、すごーくカッコいいノ。それで、正義の味方なんダヨ!」

パパとマーマの話(自慢話)をすることは、ナターシャには、何より楽しく、何より大事なことだった。
謎の老人の正体を探ることの10倍も、それは大事なこと。
ナターシャは もちろん、大事なことの方を優先して、その作業に取り組んだ。

「正義の味方か。それは すごい。正義の味方というのは、何をする人なんだ?」
「正義の味方を知らないノ? 地上の平和を守って戦う戦士のことダヨ。世界の平和を乱そうとする悪者と戦うんダヨ」
「世界の平和を乱そうとする悪者と戦う人――か……」
独り言のように呟いて、老人が 暫時 その人好きのする顔を暗くする。
少し縮れた白髪を、老人は 困ったように 掻き乱した。

「ナターシャちゃんのママは どんな人だい? もしかしたら、ナターシャちゃんのお家では、パパよりママの方が おっかないのかな?」
「ナターシャのマーマは おっかなくないヨ。ナターシャをアマヤカシスギルって、パパを叱ることはあるけど、ナターシャは いい子だから叱られない。マーマも正義の味方なんダヨ。ナターシャのマーマはすごく綺麗で優しいヨ」
「ママも正義の味方?」
より大事なことを優先するあまり、ナターシャは すっかり謎の老人の正体を探る仕事を忘れてしまっていた。
より大事な仕事に夢中になっているせいで、『マーマも正義の味方』と言われた老人の眉が曇ったことにも気付かなかったし、老人の正体を探る代わりに、自分の正体を老人に教えていることにも気がつかなかった。
なにしろ ナターシャには、パパとマーマの自慢をすること以上に楽しいことはなかったのだ。

「お嬢ちゃんのママなら、さぞかし美人だろうな」
「あったりまえダヨ! パパとマーマの名にかけて、ナターシャのマーマは世界一 綺麗で優しいマーマダヨ!」
「パパとマーマの名にかけて? 面白い言い回しだ、今は そういうのが流行ってるのかい?」
自信満々のナターシャに、首をかしげながら老人が尋ねてくる。
ナターシャは、『パパとマーマの名にかけて!』を言う機会を与えてくれた おじいちゃんを、すっかり好きになっていた。
シュラは口数が少なすぎて、ナターシャが『パパとマーマの名にかけて!』を言う以前に、会話らしい会話が成立しないのだ。

「『パパとマーマの名にかけて!』は、ナターシャだけの まいぶーむダヨ。ナターシャは、じっちゃんがいないから、パパとマーマの名にかけるノ。『じっちゃんの名にかけて』って言って、名探偵のマゴの男の子が謎を解くお話があるんダヨ」
「名探偵?」
「おじいちゃん、知らない? 名探偵 キンダイチコースケ」
「――名前は聞いたことがあるが……」
「ウン。ほんとは、ナターシャも 名前しか知らないノ。どんな事件を解決したのかは、ナターシャは知らないんだケド、スゴイ名探偵なんだっテ。ナターシャはまだ子供だから、そういう事件のことは 知らないままでいなさいって、マーマが言ってた。ナターシャは、名探偵が名探偵だってことだけ知ってればいいんダッテ」
「美人のママが?」

老人は、美人が好きらしい。
彼は、どちらかというと名探偵が解決した事件より、ナターシャの美人のママの方が気になるようだった。
「ナターシャちゃんが 探偵が解決した事件のことは知らないままでいた方がいいという、美人のママの意見には賛成だが……その名探偵に孫がいるのか? そんな話は聞いたことがない」
「いるんダヨ。じっちゃんの名にかけて、謎を解くんだモン。マゴじゃなかったら、『パパの名にかけて』って言うデショ?」
「うむ。それはそうだ。それは そうだが――おかしなことになっているんだな……」
「エ?」

『それは そうだが、おかしなことになっている』とは どういうことなのか。
老人の独り言のような呟きの意味が わからず、彼の顔を見上げたナターシャに、老人はまた 人好きのする笑顔を向けてきた。
「いや……そうか、ナターシャちゃんのママは そんなに美人なのか。一度、会ってみたいものだ」
「マーマは、夕方になったら ナターシャのお迎えに来てくれるヨ。きっとパパも一緒だと思う。ナターシャ、今日は綿飴を買ってもらうんダヨ! 昨日は、ヨーヨーを買ってもらったヨ!」
「それはよかったね。じゃあ、私は、一度 退散してから、ナターシャちゃんの美人のマーマを見に、夕方また来ようかな。私が ずっと ここに座っていると、他の人がテーブルを使えない」
「ウン! それがイイヨ! マーマが お迎えに来る頃、もう一度来て!」

老人が そう言って、掛けていた椅子から立ち上がったので、ナターシャも立膝をしていた縁台から飛び降りた。
飛び降りてから、改めて――自分がシュラの依頼で 謎の老人の正体を探ろうとしていたことを思い出したのである。

謎の老人は、炭酸が抜けて ぬるくなったビールが好きで、美人が好き。
正義の味方のことは、あまり知らない。
名探偵 金田一耕助の名は知っているが、その孫の活躍は知らない。
お話をいっぱい聞いてくれる優しい おじいちゃん。
ナターシャの報告に、シュラは満足したような、していないような、実に微妙かつ奇天烈な顔を作った。






【next】