氷河と氷河の母が暮らす村は、ギリシャの北、テッサリアの北にある。 村人の数は、500をやっと超えるほど。 椀を伏せた形をした幾つもの小さな山の連なりに四方を囲まれた平地に、ささやかな畑を抱えた集落。 テッサリアの都からは遠く、山々によって近隣の村から隔てられ、地理的に仕方がないのだが、どちらかといえば閉鎖的な村だった。 西の山と山の間を通って注ぐ川は、大きく蛇行して 東に向かって流れている。 上流にテッサリアの都、下流の先にはアテナイの国。 到底 栄えているとは言い難いが、村に多くの恵みをもたらす山と川は美しい光景を作り、時折 村にやってくる行商人たちは、他に褒めるものがないだけなのかもしれなかったが、口を揃えて、村の素朴で のどかな美しさを褒め讃える。 そんな村である。 村の長は、村でいちばん広い畑を持つ60絡みの男で、少々 吝嗇家の気味があるのだが、自分の損にならないことには比較的 鷹揚で公平な長だった。 夫を早くに亡くし、大人の男手のない氷河の家を ないがしろにすることがないのは、彼が氷河の母の染色の腕を買っているから。 村の外から こんな小さな村に行商の者がやってくるのは、彼等が氷河の母が染めた布や糸を手に入れるためなのだということを承知しているからだった。 それらの品は、テッサリアの都やアテナイの都では 驚くほど高い値で売り買いされるのだと、氷河は聞いていた。 そのわりに、氷河の家は 村の中でも つましい方に分類される家だったが――自分の家の畑がないというのは、この村では そういうことなのだった。 この村で いちばん広い畑を持ち、この村で いちばん大きな家に住んでいる村の長は、氷河の母が差し出した葦舟を見ると、まず、 「この豊作の年に葦舟とは……!」 と、葦舟そのものに驚いた。 そして、長の判断を仰ぎにきた氷河の母に、逆に、 「おまえさんは、この子をどうしたいんだね」 と尋ねてきた。 「うちの子にする!」 母が口を開くより先に 氷河が大きな声で答えると、それを氷河の母の意思と早合点したらしい村長は、おもむろに その眉間に皺を刻んだ。 おそらく 彼は、それを“よいこと”だとは考えなかったのだろう。 渋い口調で、彼は氷河の母に意見してきた。 「しかし、おまえさんの家は決して余裕があるわけではないだろう。畑があるわけでもないし、氷河と二人で暮らすので精いっぱいなんじゃないか? この子の素性も、感心できるものではないのかもしれん。こんなに実りの多い年に子を捨てるとは、よほどのことだぞ。親の名を記した札もない。不義の子か、災厄をもたらすという悪い神託が下った子なのかもしれない。飢饉にでもなったら、家族が共倒れになる危険もある。川に戻した方がいいかもしれないよ」 村長は、長としての立場に立ち、彼なりに氷河の家のことを案じて 言ったのだったろうが、氷河には 長の立場や懸念など知ったことではなかった。 氷河には、せっかく見付けた素晴らしい宝物を捨てることは、それこそ愚かな振舞いに思えたのである。 「この子の食べるものは俺が手に入れる! 果物も魚も鳥も野菜も俺が採ってくるから!」 こんなに小さな赤ん坊には、広い居場所は必要がない。 着るものなら、多少 ぶかぶかでも 自分のものを貸してやればいい。 となれば、問題は食べ物のことだけだろうと考えて、氷河は そう言い切ったのだが、話は 氷河が期待したようには運ばなかった。 「氷河……こんな小さな子に必要なのは、果物や肉ではなく、お乳なのよ」 「お乳……?」 困惑顔の母に そう言われて、氷河は きょとんとしてしまったのである。 自分が そんなものだけで満足していた頃の記憶は、当然のことだが、氷河にはなかったのだ。 「氷河が すっかり気に入っていて、できれば 川に戻したくはないのですが……」 「止めはしないが……。一緒にいる時間が長くなると別れ難くなるし、物心がついてから 川に戻すのは、この子にとっても酷なことだ。おまえさんも、それは わかっているとは思うが」 「はい」 「この子を育てるか、川に戻すかは――まずは 乳を確保できるかどうかを確かめてから決めた方がいいだろうな。この村には、牛や山羊を飼っている家は少ないし、生まれたばかりの赤ん坊を抱えている家も、今は 1、2軒しかない。貰い乳ができるかどうかも怪しい。赤ん坊を育てたくても、乳がなければ育てようがないだろう」 「そうですね……」 村長の言葉を、氷河の母は 尤もなことと受け取ったようだった。 尤もなことでも、正しいことでも――それは 氷河には、苛立たしいばかりのことで、氷河は その腹立たしさを隠すことができず、派手なふくれっ面になったのである。 大人たちの話から察するに、赤ん坊に与える乳を確保できるかどうかという問題は、赤ん坊を育てるのに 非常に重要なことであるらしい。 村長の家を訪ねて 氷河にわかったことは、その一事だけだった。 山に囲まれた小さな村は 放牧に向いておらず、それゆえ、牛乳や羊乳、山羊乳は手に入れにくい貴重品である。 だが、とにかく、乳さえ確保できれば、母も村長も赤ん坊を育てることに強く反対する気はないらしい。 自分の家に山羊や牛を贖えるほどの余裕がないことは、氷河も知っていた。 となれば、ここは何としても、野生の山羊を捕まえるしかない。 果物や肉を食べることができない赤ん坊を飢えさせないためには、少しでも早く。 そう思い至ってしまったら、我慢が利かなくなり、氷河は即座に村長の家を飛び出していた。 「氷河、どこにいくの!」 母の声が氷河の背中を追ってきたが、氷河は振り向いている時間も惜しかったのである。 それでなくても、普段から 一人で山や川に入ってはならないと言われている。 『山に山羊を探しにいく』と、本当のことを正直に告げたら、止められるに決まっているのだ。 だから 氷河は、後ろを振り返らず一目散に、村を囲んでいる山の一つに向かって駆け出し――だが、氷河は 山の中に分け入ることはしなかった。 母の言いつけに背くことに躊躇や罪悪感を覚えたからではない。 山羊のいそうな山に、氷河が いざ分け入ろうとした途端、あろうことか 山羊が一頭、氷河の方に向かって歩いてきたのだ。 それも、子山羊を伴っていないのに乳の張った山羊が。 乳の出る山羊を求めて山に入ろうとしていたのに、そして、首尾よく目的のものを手に入れることができたというのに、氷河は その事態を喜ぶことができなかったのである。 あまりに出来すぎの この事態は、幼い氷河でも奇異に感じずにいることはできなかったから。 いくら何でも 事がうまく運びすぎると思いつつ、それでも せっかく向こうからやってきてくれた山羊を山に追い返すわけにもいかず――氷河は、その山羊を村に連れ帰った。 もしかしたら自分は、いたずら好きの牧神に からかわれているのだろうかと、合点のいかない心を抱えたまま。 氷河が連れ帰った山羊を見た村長が、 「ヘラクレスは 生まれたばかりで大蛇を退治し、ヘルメスは 生まれた その日にアポロンの飼っていた雄牛50頭を盗んでのけたというが、たった4歳で山羊を捕まえてくるとは……」 と言って目を丸くし、更に、 「神が、この子を育てろと命じているのだろう」 と、言葉を続ける。 そう言われて初めて、やっと、氷河の合点のいかなさは治まってきたのである。 同時に 氷河は、さすがに大人は 不思議な出来事を説明できるだけの知恵と知識を持っていると、村長を(少し)見直した。 そして、きっと 村長の言う通り、葦舟が自分に拾われたのは運命だったのだと、氷河は信じたのである。 「うん。この子は 自分から俺のところに流れてきたんだ! それを俺が見付けたんだ! だから、俺の子にするんだ!」 この出会いが運命なのなら、これほど嬉しい運命はない。 氷河は弾んだ声で、高らかに宣言した。 そこに、氷河の母が、 「氷河。さすがにそれは無理よ」 と、物言いをつけてくる。 「え……」 せっかく乳を確保することができたのに、マーマは なぜそんなことを言うのか。 この運命を、マーマは認めないというのか。 憤りと、悲しさと、やるせなさと、不満、割り切れなさ――。 様々の感情が入り混じった目で、氷河は、母を見詰めることになったのである。 氷河の母は、だが、“無理”という言葉を撤回してはくれなかった。 撤回せず、 「氷河の子ではなく、マーマの子にしましょう。だから、この子は氷河の妹ね」 と、告げてくる。 微笑む母に そう言われて、氷河は、『それは無理』という母の言葉を、素直に認めることにしたのである。 それは そうである。 それは その通りだった。 「やった! マーマ、ありがとう! やった!」 美しく愛らしい赤ん坊。 氷河が心から“可愛い”と思えた、初めての赤ん坊。 それが、氷河と氷河の母と 瞬の、運命の出会いだった。 |