最初 瞬は、自分たちが時間を遡ってしまった(だけ)なのだと思った。
それも、かなり昔――連理のクスノキが まだ この地上に芽を出してもいない時代に飛んだのだと。
大気を汚す機械や自動車のない地なればこその真っ青な空。
足の下には、舗装されていない土と草。
自分たちが時間だけではなく、場所も移動していることを瞬たちに知らせてくれたのは、瞬たちの眼前に迫るように存在する深緑の山の連なりだった。
関東平野に立つ人間に、山々が これほど間近に見えるわけがない。

これは いったい いつの、どこの山なのか。
この手の現象には慣れているが、毎回 心臓に悪い。
そんなことを思いながら、溜め息混じりに、瞬は周囲の観察を始めたのである。

瞬たちがいるのは、深緑の連なりを形成している山々の中の一つ。
その山の、麓を見おろすことのできる中腹付近に、瞬たちは立っていた。
太陽の位置と向きから察するに、南斜面。
麓の平地には、どう見ても 古墳時代のカヤやワラで屋根を葺いた竪穴式住居としか思えないもので構成されている集落がある。
瞬たちの周囲の木々は、植林ではなく自生。アコウやサカキ等、温かい地方に見られるものが多く、もし ここが日本国内なのであれば――日本国内だろう――四国か九州――と、瞬は察した。

「いったい、なぜ……」
「貴鬼たちが いろいろ やらかしているんだろう? その影響なのではないか」
氷河が そう呟いたのは、この状況が、ナターシャの“お願い”のせいで生じたものではないことにするためだったに違いない。
氷河には もうわかっていたのだ。
少なくとも、“今”が いつなのかということは。

木の陰から、髪を角髪(みづら)に結い、筒袖の(きぬ)と、膝のあたりを紐で結んだ(はかま)を まとった一人の若い男が飛び出てくる。
続いて、彼より幾つか年かさと思われる数人の男たちが ばらばらと現われ、彼等は 登場するなり 僅かの逡巡も見せずに 瞬たちの前に跪いた。
その時点で、瞬と氷河の推察は確信に変わったのである。
瞬たちの前に現れた十人ほどの男たちは、古事記や日本書紀に記されている姿、埴輪等に証される姿をしていたから。

「不思議な お三方――不思議なお召し物。私の呼びかけに応えて、降臨くださったのか。皆様は 畏れ多くも三貴神――いや、その幼い方はスサノオ様には見えない。少彦名(スクナビコナ)様か?」
最初に飛び出てきた青年――否、少年――が、地面に片膝をついて、瞬たちを仰ぎ見る。
胸元に 勾玉を連ねた頸珠(くびたま)を掛けているところを見ると、最も年若く見える彼が、この男たちの統率者らしい。
三貴神とは、太陽神アマテラス、月神ツクヨミ、海原神スサノオのこと。
スクナビコナとは、オオクニヌシと共に日本の国を作った子供の姿をした神。
氷河の金髪のせいなのか、瞬たちが身に着けている“不思議なお召し物”のせいなのか、彼は いろいろと勘違いをしているようだった。

「僕たちは、そんなものではありません。ここはどこですか。あなたはどなた?」
瞬は一応 彼に尋ねたのだが、その答えを受け取る前から、瞬たちは おおよそのことは察していた。
案の定の答えが、彼から返ってくる。
彼は、父帝の命で、クマソ征伐にやってきていたヤマトタケル(と名乗る前のヤマトオグナ)。
遠いヤマトの国から クマソの頭目であるクマソタケルの居住地までやってきたはいいが、僅かの手勢で どうやって勇猛で聞こえたクマソの民と戦えばいいのかがわからず、もう5日も ここで 麓の村を 指を咥え眺めていた――という話だった。

古代日本最大の英雄は、どう見ても まだ成人前。
未来の英雄にしては、気の弱そうな目をした、色の白い細身の少年だった。
そして、どうやって 猛々しい猛者を倒せばいいのか、悩み迷っていた。
クマソタケルの陣には、武器を持って戦える男たちだけで、数百を超えた兵がいる。
それに比して、こちら側は、オグナを入れても やっと十人ほど。
到底 太刀打ちできるものではないと、未来の英雄は、すがるような眼差しで 瞬たちに訴えてきた。

九州地方に強大な勢力を誇っているクマソの民を討伐を命じた景行天皇が、実子である皇子に僅かな従者しか与えなかったという、記紀の記述は事実だったらしい。
記紀には、ヤマトタケルは伊勢斎宮である叔母から授けられた女性の衣装で美女に化け、クマソの宴に潜り込んでクマソタケルの暗殺に及んだと記されている。
アッシリアのホロフェルネス将軍の寝首を掻いたユディットさながらの策略劇。
実父にさえ、その勇猛を恐れられた英雄にしては 女性的な奇策を採ったものだと思っていたが、そもそも圧倒的に兵力が違いすぎたのだと、瞬は 数人の供しか従えていない十代の少年に 同情することになった。

「でも、女性の衣装は持ってきているんでしょう?」
と尋ねてから、瞬は、自身の迂闊を たしなめるために、自分の舌を噛むことになった。
この時代、この世界の人間でない人間が、彼に策を与えるのはまずいのではないかと、瞬は 言葉を続けることを躊躇したのである。
それは 結果的に全く意味のない躊躇だったが。
白鳥の皇子のファンであるナターシャが、意気揚々と 瞬の言葉を継いでしまったのだ。
「それで、綺麗な女の人に化けるんダヨ! それで 恐いクマを退治するんダヨ!」
「ナターシャちゃん!」
それは決して歴史を狂わすような情報ではない。
むしろ 歴史を正しく進めるための情報である。
それでも、瞬は慌てた。

氷河は、彼の嫌いな男が 非力な優男なのに呆れて(?)そっぽを向いている。
そっぽを向いていなくても、氷河はナターシャを責めるようなことはしなかったろうが、我関せずといった(てい)の氷河に、瞬は 少なからず腹を立てたのである。
氷河は、ナターシャを叱りたくないから、そんな無責任な態度を取っているのだということがわかるから。
そして、実際、ナターシャの その言葉で、事態は動き出してしまったのだ。

「叔母上が、私に女の衣装をくださったのは、そのためだったのか……!」
ヤマトタケルが、初めて 腑に落ちたような顔になる。
彼は、あまり機転の利くタイプの人間ではなさそうだった。
「ありがとうございます。少彦名様は、さすがの知恵者だ」
ナターシャは、白鳥の皇子が明るい笑顔になったのを見て、ご満悦。
なにしろナターシャは、いつも瞬に『困っている人がいたら、助けてあげられる優しい人になろうね』と言われていたのだ。
ここにいるのは、マーマの期待通りに優しいナターシャ。
誇らしげに パパとマーマを振り返ったナターシャを、瞬は――瞬も――叱るわけにはいかなかった。

それ以前に、瞬には、ナターシャを叱る時間も褒める時間も与えられなかったのだ。
ナターシャから クマソタケルを倒す策を与えられたヤマトタケルが、叔母から与えられた衣装を取り出そうとした次の瞬間にはもう、彼等はスカイツリーのそびえる世界に戻ってきてしまっていたから。






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