熱視線






「誰かに見られてるような気がするんだ……」
深刻な顔をして、瞬が その事実(?)を仲間たちに打ち明けたのは、暦が 婚姻の女神ヘラの名を冠する月に入って まもなく。
ギリシャ神話もローマ神話も知らない(一部の)若い女性たちが、“ジューンブライド”なる言葉を口の端にのぼらせる機会が多くなる時季。
そして、晴れた日の午後が終わりかけている時刻だった。
梅雨には まだ早く、城戸邸ラウンジの窓の外には、夕方になる直前の最も青色の濃い空が のびやかに広がっているというのに、瞬の瞳と表情は曇天。
一足先に 瞬の許にだけ 梅雨が到来したかのような―― 瞬は、そんな空気を身辺に漂わせていた。

「誰かに見られてるような気がするって、そりゃ、誰かに見られてるだろ」
言い終える前に、間の抜けたことを言ってしまったと反省はしたが、星矢は あえて気の利いた言葉で訂正を図ることはしなかった。
どんな言葉で言っても、事実は事実として変わらない。
一人暮らしの部屋で 外出もせず引きこもっているのでない限り、人は誰かに見られているものなのだ。
複数の仲間がいて、使用人も多い城戸邸内は言うに及ばず、瞬は、街中に出ても衆目を集めるし、氷河と二人連れの時には その注目度は 更に増す。
瞬は 誰かに見られていない時間の方が少ない人間。常に誰かに“見られている”人間なのである。

「あ、そういう意味じゃなく」
自分が口にした言葉を、星矢が正しく言葉通りに解したことに気付いたらしい瞬は、すぐに自身の発言に 若干の詳細説明を加えてきた。
「四六時中、特定の誰かに」
「四六時中、特定の誰かに?」
瞬が口にした言葉を そのまま復唱して、星矢はわずかに眉根を寄せた。
瞬は、気の置けない仲間との他愛ない お喋りを望んでいるのではなく、真面目に深刻な相談をしようとしているらしい。
人の相談に乗り 世話を焼くことはあっても、自分のことで人の手を煩わせようとすることのない瞬が、仲間に相談を持ち掛けてくるとは よほどのことである。
常日頃、何かと世話になっている瞬の恩に報いるべく、星矢は迅速に 自身の頭の状態を 弛緩モードから活動モードに切り替えた。

「ストーカーか?」
瞬が 四六時中、特定の誰かに見られている。
そう言われれば、まず その可能性が最初に思い浮かぶ。
というより、それ以外のパターンが思い浮かばない。
だから 星矢は、ほとんど そうであることを確信して 瞬に問うたのだが、そんな星矢への瞬の答えは、いかにも頼りないものだった。
「それは わからないけど……。見られてるって思うのも、僕の気のせいなのかもしれないし……」
「気のせいならいいけど、おまえの場合、そうと言い切れないところがあるからなー」

もし“四六時中 瞬を見ている特定の誰か”が ストーカーと呼ばれる人種なのであれば、その人物は 十中八九、瞬を女の子と誤認しているだろう。
無論、仮にも アテナの聖闘士が、一般人のストーカーに脅威を感じることはないのだが――むしろ、そんなものは恐るるに足りないのだが――相手が一般人の場合、その人物が一般人であるがゆえに アテナの聖闘士は反撃できない――という問題が生じるのだ。

「ストーカーって、あれだろ。狙いをつけた相手に つきまとって、四六時中 監視して、盗聴器を仕掛けたり、盗撮して大量の写真をコレクションして悦に入ったりする、超勤勉な犯罪者。自分が好かれてると思い込んで、相手の立場や気持ちを無視して、一方的に自分の都合と好意を押しつけてくる超自己中。逆に、嫌がられてることを承知で、執念深く嫌がらせするタイプもいるらしいけど」
星矢が知っているストーカーに関する情報は それくらいのものだった。
が、それで十分である。
それ以上の情報は欲しくないし、そんなものを多く手にすることは、絶対に楽しいことではないに決まっていた。

瞬が、相変わらず 自信がなさそうに、心許無げな目をして、
「ストーカーというのとは、ちょっと違うような気がする……」
と答えてくる。
瞬が いかにも自信なさげな様子なのは、『ストーカーでないのなら、何なのだ?』と問われても、返す答えを持っていないから――なのだろう。
瞬は ただただ不安そうだった。
ただ 漠然と不安そうだった。

「違う? 違うって、どう違うんだ?」
「見られてる気がするだけなんだ。いつもいつも。実害は全くないの。存在を誇示されたわけでもない。接触を図られたわけでもないんだ」
「ん……まあ、この家は、セキュリティは完璧だし、CIAだろうが KGBだろうが、盗聴も盗撮も侵入も、まず不可能だからな」
それ以前に、アテナの聖闘士に気付かれずにストーカー行為を続けられる一般人がいることが考えにくい。
アテナの聖闘士は、その気になれば 足元を歩く蟻の気配さえ感知できる、言ってみれば 超高性能のインテリジェントセンサーのようなものなのだ。

「なら、やっぱり気のせいなんじゃないか? アテナの聖闘士に正体を悟らせず、存在を気付かせることもなく 四六時中 見てるなんて、透明人間でもなきゃ できない芸当だ。いや、透明人間にだって難しい」
「うん……」
瞬自身、そのことは わかっているのだろう。
だから、瞬は『気のせいかもしれない』と思っているのだ。
しかし、同時に、『気のせいではない』と 感じてもいる――。

「おまえの気のせいではないとしたら、そのストーカーの正体は氷河なのではないか」
そんな二人の間に 紫龍が脇から口を挟んできたのは、『気のせいだ』ということにも『気のせいではない』ということにも確信を持てずにいる瞬と、アテナの聖闘士に気付かれることなくストーカー行為のできる人間は この地上世界には存在しないという考えの星矢では、議論に それ以上の発展が見込めないと思ってのことだったろう。
そのパターンを全く考えていなかった星矢が、紫龍の提示した可能性に大きく頷く。
そのパターンを思いつけずにいた自分に呆れて、星矢は両の肩をすくめた。

「あ、そっか。透明人間でなくても、アテナの聖闘士になら、アテナの聖闘士をストーキングすることも可能か。なら、その変質者は氷河だろうな」
自分が、最有力とはいえ容疑者にすぎない人物を犯人と決めつける危険を冒しているという自覚は、星矢にはなかった。
しかし、それは、冤罪事件を引き起こしかねない 極めて危うい行為である。
幸い 星矢は、その過ちを犯さずに済んだ。
事件の被害者である瞬が、氷河犯人説を否定してきたのだ。
「違う……と思う。僕、氷河の視線なら わかるから」
という言葉で。

「は。さすが」
瞬が そう言うのなら――星矢には『それは違う』と、瞬の言を否定することはできない。
瞬が そう言うのなら、それは事実に決まっていた。
とはいえ、冤罪事件の被害者にならずに済んだ氷河が、それを喜ぶことがあるとは、星矢には到底 思えなかったのだが。
瞬のストーカーが白鳥座の聖闘士でないということは、つまり、氷河以外に瞬をストーキングしている何者かがいるということなのだ。

星矢が ちらりと横目で、被害者の証言によって容疑者でなくなった仲間を見やる。
その視線の先で、氷河は、自分が冤罪事件の被害者にならずに済んだことを喜ぶでもなく、真犯人への憤りを露わにするでもなく、無言無反応。
おかげで 星矢は、かえって氷河への疑惑を新たにすることになってしまったのである。

自分以外に瞬をストーキングしている人間がいると知ったら、平生の氷河なら、怒髪天を衝いて怒りまくるはず。
その怒りを表情や態度に表わすか否かは ともかく 怒るはず――少なくとも、冷静ではいられないはず。
にもかかわらず、氷河が感情の動きを全く見せないのだ。
氷河という男をよく知っている者には、それは おかしなことだった。

もしかしたら、氷河は この件について 何か知っている。
へたをすると、瞬をストーキングしている人物の正体を知っているのではないかと、星矢は――おそらく紫龍も――疑うことになったのである。
星矢と紫龍の疑いの眼差しに気付いていないはずはないのに、なぜか氷河は沈黙を守り続けた。






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