「まったくどうして、瞬は こんなに人がいいんだ。君のような愚かな男を受け入れるとは、瞬は慈悲の心だけでできている人間だ。あげく、己が身に こんな好き勝手をされて、浅ましいもので汚され、それを嬉しいと感じるのは、被虐趣味としか思えない。そんなだから、ハーデスに つけ狙われたりするんだ」
これまで幾度も――幾度も幾度も幾度も――繰り返してきた言葉を、シャカは今夜も繰り返してきた。
シャカが口にすること一つ一つに反駁したい気持ちはあるのだが、それをしていたら 夜が明けてしまう。
だから氷河はシャカの繰り言を、
「貴様とハーデス、どっちもどっちだ」
の一言だけで、受け流した。
今夜は 氷河には、シャカの嫌味への反駁より、言っておきたいことがあったのだ。

「貴様、もう少し 自分の存在を消せないのか。瞬が いつも見られていると感じるのは、貴様のせいだぞ。貴様の その目のせいだ。生きている時には ずっと つぶっていたのに、貴様の目は 死後は開きっぱなしのようだな」
アテナの聖闘士にも その存在を知覚させないほどストーキングの技に熟練したストーカーが、まさか自分の中にいるとは、さすがの瞬も思い至らずにいる。
だが、感じてはいるから、事は厄介なのだ。

目に見える脅威と、漠然とした不安。
その二つを比べれば、対応策を講じることができないという点で、後者の方が人の心を より不安にするものだろう。
だというのに、シャカは、自分という存在が瞬にとって どれほど迷惑な存在なのかということを考えようともしない。
もちろん氷河は、何度も その事実をシャカに告げたのである。
だが、シャカにとって、瞬の被る迷惑など、彼が掲げる大義の前には、羽毛1本ほどの重みもないものらしかった。
シャカが掲げる大義――“黄金聖衣の正当な継承”という大義の前には。

「私はただ、私の聖衣が無事に瞬のものになるのを確かめたいだけだ。瞬は 自己評価が低すぎる。私の聖衣は すっかり その気だし、アテナも当然 そうなるものと思っておいでだろう。だが、瞬は、今のままでは、黄金聖衣は自分には不相応だと言って、乙女座黄金位継承を遠慮しかねない」
瞬が黄金位の継承を遠慮するのは 大いにありそうなことだが、その際の理由は、瞬の自己評価の低さより、前任者と関わり合いになりたくないという思いの方が大きいのではないか。
――というのが、氷河の本音だったのだが、氷河はその本音をシャカに告げたことはなかった、
地上の平和を守るために その命を捧げた先達への敬意ゆえではない。
自身の本音を一言でも口にしたが最後、シャカから百万の反論が返ってくることが、容易に想像できるから。
そして、今の氷河は、瞬を人質に取られているも同然の立場に立たされているから――だった。

「その上、アフロディーテも瞬を後継者にしたいと つけ狙っているのだ。ま、アフロディーテには私ほどの力はないから、こうして現世にやってきて 瞬と接触することもできず、あの世で地団太を踏んでいるだけなのだがな」
得意げにシャカは(瞬の唇で)言うが、それは 要するに、シャカよりアフロディーテの方が常識をわきまえた男だということ。
シャカは 自身の非常識を自慢しているのだ――氷河にとっては そうだった。

「俺が責任をもって、瞬を乙女座の黄金聖闘士にするから、貴様は安心して あの世に帰ってくれ」
これまで幾度も言ってきた言葉を、無駄と知りつつ繰り返してみる。
シャカの答えも、氷河には聞き慣れたものだった。
「君の保証に、どれほどの力があるというのだ。信用度ゼロ。まったく当てにならない」
そう言って、シャカが氷河を鼻で笑う。
比喩ではなく、シャカは 本当に鼻をふんと鳴らして、氷河に冷笑を投げてきた。
瞬の身体で それをされる氷河の立場と気持ちを思い遣る慈悲の心など、もちろんシャカは持ち合わせていないのだ。

「君が持つ力の最たるものは、瞬に肉体の快楽を与える力だ。それだけと言っても過言ではない。他の力はどれも大したことはないが、その力だけは私も認めよう。まあ、その力とて、瞬の過敏と 瞬がなぜか君ごときに絶大な信頼と好意を抱いていることに助けられて 実力以上のものを発揮しているだけなのだが」
言いたいことを言ってくれるものである。
瞬の身体と唇を使って、シャカは言いたいことを言ってくれた。

「あんな浅ましい恰好をさせられ、あんな おぞましいものを突き立てられ、あれほどの痛みを強いられて、瞬は何が嬉しいのだ。あればかりは、意識とは異なる次元のものだから、私には感じ取ることはできないのだが、瞬は君に我が身を貪られることが好きらしい」
「……」
問題は、シャカの“言いたいこと”が、氷河にとって“言われたくないこと”ではないということだった。

シャカという男は 全く好意を抱けない男で、彼が瞬の中にいることは不快。
瞬の意識のない時だけとはいえ、彼が瞬の身体を使って 好き勝手に振舞うことは 許し難いことだと思う。
だが、瞬の身体と唇を使ってシャカが氷河にもたらしてくれる 瞬に関する情報は、氷河にとって極めて貴重なものだった。
瞬が正気なら――瞬の身体を瞬の意識が支配している時には、瞬は 恥ずかしがって、そんなことは絶対に氷河に言ってくれないのだ。

とはいえ、まさか あの瞬に向かって、『よかったか』などと訊けるわけがない。
そのセリフが陳腐を極めたものだからではなく――どれほど聞きたくても、訊くことはできない。
そんなことを訊いてしまったら、瞬に人格を疑われることになりかねないから。
人格を疑われずに済んだとしても、価値観を疑われることにはなるだろう。

瞬は、その行為を 良し悪しではないと考えているはず。
快楽を得るためのものとは思っていないはず。
それは愛ゆえの行為。よかったも悪かったもなく、“よいもの”でなければならないのだ。
それを『よかったか』と訊くことは、二人の間にある愛を疑うこと。瞬の愛を疑うこと。
それは、決して発してはならない質問なのである。

だが、氷河は知りたい。
氷河は、それを知りたかった。
この二律背反。アンビバレンツ。
そのジレンマを解消してくれるのが、シャカという傍迷惑な男の存在だった。

「瞬は、そんなに いい気持ちになっているのか」
「エイトセンシズに至ることも可能なくらいにな。いや、実際 瞬は、そうと意識せず、君と交わるたびエイトセンシズに至っている。私が瞬の許に来ることが容易になったのは、そのせいなのだ。エイトセンシズは生者が生きたまま冥界に行く力。反魂の技――死者の魂を現世に呼び戻す力をも内包しているものだからな。常人は滅多に至ことのできない領域にまで、瞬は 君によって導かれている」
多少 引っ掛かるところがないでもなかったが、手放しの大絶賛。
シャカの絶賛は、だが、そのあとが いただけなかった。

「瞬が、これほど好き者だったとは。地上で最も清らかな魂の持ち主が聞いて呆れる」
「なに……?」
シャカがもたらす情報は、氷河にとって 極めて貴重なものなのだが、瞬を貶める言葉を我慢してまで手に入れたい情報ではない。
氷河が ぴくりと眉を引きつらせると、シャカは すぐに自身の発言を補正してきた。
氷河の出方次第で 自分が現世にやってくることが困難になることを、シャカは知っているのだ。

「いや、清らかだからこそ、瞬は一片の疑いを抱くこともなく君を信じ切ることができ、素直に心身の快感を受け入れることができ、その結果、エイトセンシズに至ることができるのだろうな。エイトセンシズは、考えようによっては、最上質のオルガスムス。愛だけでも技術だけでも、それは成し遂げられない。その両者が最高の状態で揃ってこそ、君たち二人だからこそ 至ことのできる、それは奇跡の境地なのだ」
よくも そんなことを真顔で(瞬の顔である)べらべらと言い立てることができるものだと 呆れはするが、氷河は どうしても、この貴重な情報源を追い払うことができなかった。

瞬との情交が 彼の出現に力を貸しているのは事実のようだったが、まさか その行為を断つわけにはいかない。
断ったところで、シャカを完全に死者の国に追い返し、閉じ込めることはできない。
シャカを完全に黙らせるための具体的な方策がないのも事実だったが、氷河が何としても――命をかけてでも――シャカを追い払う決意をできずにいるのは、結局のところ、彼のもたらす情報を失いたくないという気持ちが強いからだった。






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