目覚めている時には、氷河の青い瞳を美しいと思う。
北の海が凍ってできた宝石が 密やかに熱を帯びているような――氷河の心を そのまま形にしたもの。
それが彼の瞳で、その瞳に見詰められていると、瞬は 時に忘我の域に至るような気持ちになるのだった。

目を閉じている時には、氷河の面差しの造形そのものの端正に、溜め息が出る。
瞬が朝早くに目覚めるのは、氷河の寝顔を気兼ねなく楽しめるからだった。
氷河は、瞬より先に眠りの中に沈むことは滅多にないが、その分 目覚めは いつも瞬より遅いのだ。
そして、おそらく 氷河の眠りは目覚める直前が最も深い。
とはいえ、瞬が氷河の姿を鑑賞をしていられる時間は とても短かった。

氷河が最も深い眠りの中に沈むと、氷河の中に潜んでいる“あれ”が覚醒する。
今朝も、それは瞬の前に姿を現わした。
といっても、それは氷河の姿をしているのだが。

「いつも済まない。我が弟子ながら、この性欲の強さは どうにかならないかと思うのだが、若いせいか、氷河はどうにも 抑えが利かないようなのだ。それに、氷河は独占欲が強いというか、大切な人を失うことを極度に恐れる傾向がある。君を他人に取られたくない気持ちが尋常でなく強いのだ。君と情交することが、ある種の保険のように感じられているのだろう。実際、君の中は絶品で、氷河が 病みつきになるのも致し方ない」
「――」
いちいち そんなことを説明しないでほしい。
氷河が 彼の愛する者に強い執着を抱いていることは、改めて教えられなくても知っているし、情交についての あれこれについては、瞬は聞きたくなかった。

カミュは、五感を氷河と共有しているわけではないのだが、氷河の思考は読めるらしい。
氷河の感情の動きも感じ取ることもできるらしい。
瞬との間に“命をかけた戦いを戦う仲間”とは別の関係を持つに至ったことを、氷河が望外の僥倖と考えていること、瞬を自分には過ぎたパートナーと思っていること、そして、氷河が瞬との肉体交渉に極めて深い満足を覚えていること。
そういったことを、カミュは、口下手な弟子(と、カミュは言った)に代わって、親切心から、事細かに知らせてくるのだ。

「あの……! 今日の ご用は何ですか!」
瞬は、口下手な弟子に代わって、尚も弁舌を振るおうとするカミュの言を遮った。
親切心から出るカミュの言葉は、聞くに堪えない。
事実なのだとしても、冷静に聞いていられない。
セックスの感想というものは、当人に 直接 言われたとしても恥ずかしいもの。
まして 第三者の口(氷河の口である)から聞かされた日には!
瞬は いたたまれない気持ちになり、いっそ 今すぐ この場から消えてしまいたいとも思った。
カミュの知らせてくれる様々のことが、全く嬉しくないわけではないのだが、それでも。

「私の用というのは、他でもない。6月16日が近付いてきたので、そのことを氷河に伝えてほしいのだ」
「6月16日? 何かの記念日なんですか」
「君は日本人のくせに、和菓子の日を知らないのか !? 」
「は? 和菓子の日?」
瞬は 日本人だが、もちろん そんなものは知らなかった。
まして、氷河に『常にクールであれ』と指導し続けていた元水瓶座の黄金聖闘士の“用件”が、
「そうだ。その日には 和菓子を食して、私を偲ぶように」
などというものだとは、考えてもいなかった。
だが、それがカミュの用件だったらしい。
その用件が あまりに思いがけなくて、瞬は つい、尊敬すべき先達に 奇異なものを見る目を向けてしまったのである。
元水瓶座の黄金聖闘士の良識を疑っているような後進の眼差しに気付いたカミュが、居心地が悪そうに視線を脇に逸らす。

「いや。そういう日なら、氷河も精進潔斎して過ごすだろうと思ったのだ。君も たまには 一人で静かに眠りたいのではないか? 私は、氷河の師として、未熟な弟子の代わりに 君の身を案じているのだ。決して、氷河に供養や感謝の気持ちを強要しているわけではない」
それは弁明なのか、本心なのか。
いずれにしても カミュは、瞬が 氷河と同様に若いのだということを忘れている。
忘れる以前。そもそも意識していない。
氷河しか見ていないカミュは、盛りのついた獣のような氷河の振舞いを申し訳なく思い、恥じてもいる。
氷河をしか見ていないカミュは、ただ それだけ。
彼は 氷河の貪欲を、実は瞬も喜んでいるということに思い至っていないのだ。
思い至られては困るので、瞬も その件に関しては 触れないことにしていたが。

「わかりました。氷河には 伝えておきます」
人の身体に当人に断りなく憑依して、その身体を自分のために使う。
その行為は、冥界でのハーデスの所業と同じ。
決して 褒められるようなことではない。
むしろ、許し難いことである。
それでも 瞬は、カミュ(氷河の身体である)に頷いた。
冥府の王と同じ所業。
だが、カミュがそれをしているのは氷河への愛情ゆえだということが わかるから。
アンドロメダ座の聖衣とは異なり、氷河の白鳥座の聖衣はカミュの血で蘇ったわけではない。
にもかかわらず、カミュの意思は ここにある。
それを可能にしているのは、血ではなく、小宇宙ですらなく、氷河に対するカミュの愛の力。
そう思うと、瞬は、カミュの無理無体も許せてしまう――少なくとも、許そうと思うことはできてしまうのだった。

「氷河の師として、私は、君の寛大には いつも感謝しているのだ。氷河の果てるを知らない体力と、尽きるを知らない欲望を受け入れて、氷河を果てさせ、満足させることができるのは、君しかいない。君は、氷河のパートナーとして完璧だ」
「ひ……氷河の顔で そんなことを言うのは やめてください……!」
カミュの顔で言われても いたたまれないだろうが――実際、瞬は、初めてカミュの存在に気付いた時には、カミュの称賛と謝辞に耐え切れず、ベッドに突っ伏して泣いてしまったのだが――人は、何事にも慣れることのできる生き物である。
瞬は今では、カミュの大絶賛を受けても、何とか泣かずにいられるようになっていた。

カミュのいいところは、彼が彼の弟子をしか見ていないがゆえに、瞬にも氷河と同じだけの体力と欲望があることに気付いていない点だった。
カミュにとって、瞬は、彼の愛弟子の我儘を受け入れ許す寛大で思い遣りのある仲間。
彼にとって氷河は、可愛い不肖の弟子。
弟子の不始末を詫びることのできる自分を、カミュは喜んでいるのだ。

「わかっているとは思うが、氷河には 私のことは知られぬように、くれぐれも注意してくれ。私は氷河のクールで恰好のいい師。過保護な師と思われることは避けたいのだ」
「言えません」
改めて釘を刺されるまでもなく、瞬はカミュの存在を氷河に知らせるつもりは なかった。
毛頭、全く、さらさら、これっぽっちも、毫もなかった。

敬愛する師に 夜ごとセックスの現場を観察され、批評まで受けていると知った時の氷河の驚愕と混乱は想像に難くない。
否、瞬が本当に恐れているのは、自分の中の師の存在を知った氷河が、その事実を歓迎することの方だったかもしれない。
自分の手で師を倒してしまった事実を、氷河は乗り越えようとしている。
その氷河に、カミュの意思が ここにあることを知らせるのは、氷河のためによいことではない――と、瞬は思っていた。
とはいえ。

氷河の“クールで恰好のいい師”であることを願うのなら、氷河の自立を認め、彼自身も弟子から自立し、クールな師を演じるのではなく 本当にクールな師になればいいではないか――と、カミュに言うこともできない。
言ったところで、無駄のような気がする。
そんな正論が通じる相手なら、そもそもカミュは ここにいないはずなのだ。
その件に関しては、瞬は既に諦めの境地に至っていた。
この氷雪の師弟には、良識も常識もない。
彼等にあるのは、ただ愛のみ。
正義ですら――この師弟には、愛の100分の1の価値さえ持っていないのだ。

「ああ、例の視線のことは気にしない方がいい。君をいつも見ているのは――あれは氷河の目だよ」
その正論の通じない人が、ふいに、良識ある大人のような口調で(氷河の声である)諭すように 瞬に告げてくる。
瞬が仲間に持ち掛けた相談事を(氷河の耳で)聞いて、カミュは気に掛けてくれていたらしい。
瞬は、首を横に振った。
「そんなはずは……あれは違う……あれは氷河の目じゃありません。氷河の目は、あんなに直線的じゃない。氷河の目はもっと……熱っぽかったり、冷たかったり、優しかったり――氷河の視線は いつももっと複雑で矛盾しているんです」
あれが氷河の視線でないことには 絶対の自信がある。
カミュは、だが、瞬の確信を 真っ向から あっさり否定してくれた。

「氷河は、いつも君を見ている。君の側にいない時も、見ている。ただ、時に 欲望だけでできた目で君を見てしまうことがあるのだ。そのことを君に知られたくなくて、取り繕おうとしたり、隠そうとしたりすることもある」
「え……」
「生きている肉体を失って 初めて実感できたのだが――身体と精神というものは、一つに融合し、相互に影響し合っているのだが、互いに離反しようとすることも、しばしばあるのだ。君が氷河のものでないと感じる視線は、そういう時の氷河の視線だ。大目に見てやってくれ。いや、気付かぬ振りをしてやってくれたまえ」
「あ……はい……」

カミュは、氷河の内側から いつも氷河を見ている。
氷河が表情や言葉に出さないことも、瞬には見ることができず感じ取れないことも、カミュには見えているだろう。
そのカミュが言うのなら――それは信じるに足ることだった。
瞬としても、あのストーカーの正体が氷河だというのなら、それは 最も安心できる答えである。
瞬はカミュの言を信じることにした。

それにしても、
氷河の部屋、氷河のベッドで、氷河ではない二人の人間が全裸で こんな話をしていることを知ったら、氷河は どう思うのだろう。
氷河は いつまでもカミュの心が現世に留まることを願うのか、死者の国に戻るべきだと考えるのか。
現世にあっても、カミュと氷河は言葉を交わすことはできない。
その事実を、カミュの存在に気付いていない氷河はともかく、カミュは 切なく もどかしく思わないのか――。

自分が本気でカミュに氷河の中から追い出そうとしないのは、もしかしたら、氷河のためではなく、カミュのためでもなく、自分自身のためなのかもしれない――と、瞬は思うともなく思った。
仲間たちを気遣って、あるいは クールな自分を装うために、氷河が黙して語らないことを、カミュは瞬に教えてくれるのだ。

「ああ、氷河が目覚めそうだ。おやすみ、アンドロメダ」
「おやすみなさい、カミュ先生」
昨夜 しっかり閉じなかったカーテンの隙間から忍び込んでくる朝の陽光が、部屋の中に ぼんやりと まっすぐな光の線を描く。
「おはよう、氷河」
「ん。いつも早いな、瞬」
肉体という(くびき)がなければ、生と死の境界は この光の線のように乗り越えようと思えば 容易に乗り越えられるものなのかもしれない。
だが、だからこそ 僕は氷河と生きていたい。
氷河の手に引かれて倒れ込んだ氷河の胸の中で、瞬は そう思ったのである。






【next】