夜勤、準夜勤のある医師の勤務時間は不規則で、土曜日曜に必ず休みを取れるわけではない。 そして、関東地方の今年の梅雨入りは例年より少し早目という予報が出ていた。 だから、氷河と瞬の休日が重なる その日、瞬たちはプラネタリウムに行く計画を立てていたのである。 好天を期待して外出の計画を立てると、外出そのものが計画倒れになりかねない。 その事態を避けるために、瞬たちは、天候に左右されない外出プランを立てていたのだ。 だというのに、まさか こういう形で、期待と予想を裏切られることになろうとは。 氷河と瞬がナターシャを連れて プラネタリウムにオデカケする予定だった その日、空は恐ろしいほどの青天。 昨夜まで 続いていた梅雨寒と 冷たい地雨は、巨大なホウキで掃き清められたように、すっかり どこかに消え失せてしまっていた。 掃除は完璧。 どこまでも青い空には、小さな雲の埃ひとつ落ちていない。 雨が降っても大丈夫なように立てたオデカケ計画は、見事に裏目に出てしまったようだった。 梅雨の時季の貴重な晴れ間。 これを有効利用しないのは、乾いた砂漠を行く旅人が、思いがけず出会ったオアシスに立ち寄らないようなもの。 目覚めて出会った予想外の青天に、瞬は大いに戸惑ってしまったのである。 全く態度には出さなかったが、それは氷河も同様だったろう。 なにしろ氷河は、日本より はるかに日照時間の短いシベリア育ち。瞬より ずっと陽光の貴重さを知っている人間なのだ。 「こんなに いい天気になるなんて……。どうする? 計画、変更しようか」 「ナターシャ、プラネタリウムより公園でピクニックの方がイイ!」 氷河より先に、ナターシャから元気な答えが返ってくる。 計画の変更を考えるのは、そうした方がいいかもしれないという気持ちがあるからで、ナターシャの即答は 瞬の迷う時間を省いてくれた。 ナターシャのためのオデカケである。 ナターシャの希望が最優先だった。 「そうだね。こんな いいお天気の日に、屋内で ずっと席に座っているのは ちょっと つらいかもしれないね。外に飛び出て走りまわりたくなっちゃうかもしれない」 「ナターシャ、ずっと お席に座ってられるヨ。お星さまも大好きダヨ。デモ、プラネタリウムは暗いでショ。暗いと、みんながナターシャたちを見てくれないでショ」 「……」 ナターシャがプラネタリウムより公園へのオデカケを希望する理由は、『お天気の日に、屋内で ずっとシートに座っているのが つらいから』ではなく、『お星さまが好きではないから』でもなく、『暗いと、みんながナターシャたちを見てくれないから』であるらしい。 その理由は、瞬には意外に感じられるものだった。 ナターシャは快活で明るく 目立つ少女だが、彼女が目立ちたがりだと思ったことは、瞬はこれまで一度もなかったのだ。 氷河とナターシャは、目立つことをして目立つ人間ではなく、ただ そこにいるだけで自然に衆目を集めてしまう、光に似た力を その身に備えた人間――と、瞬は認識していた。 「ナターシャちゃんは、よその人に見られるのが好きなの?」 瞬が僅かに首をかしげて尋ねると、そんな瞬に釣られたように ナターシャもまた 微かに首をかしげた。 今度は、即答ではない。 ナターシャはどうやら、人に見られること自体、人の注目を集めること自体が好きなわけではないようだった。 「ナターシャは、パパをカッコいいって言ってもらえるのが好きで、マーマを綺麗って言ってもらえるのが好きなんダヨ。ナターシャが可愛いって言ってもらえるのも好きダヨ」 「ナターシャは、そんな当たりまえのことを言われるのが嬉しいのか」 それを当たりまえのことのように“当たりまえ”と言ってのける氷河の自信が、彼を自然に目立つ男にしているのだろう。 瞬は、そんな氷河に無意識に感心した。 氷河とは対照的に、ナターシャは それを必ずしも“当たりまえのこと”とは思っていないらしい。 だから、彼女は それを嬉しいと感じることができるのだ。 「ナターシャは嬉しいヨ! 『パパがカッコいい』と、『マーマが綺麗』と、『ナターシャが可愛い』は、何回言われても嬉しいヨ。パパは違うの?」 誰かに そう言ってもらえなければ、たとえ“当たりまえのこと”でも 当たりまえのことと思うことは難しい。 そのために他人の言葉を必要とするナターシャは、氷河ほど 自信家ではないのかもしれなかった。 「『ナターシャが可愛い』は、確かに何度言われても いい気分になるセリフだが、人に言われなくても 事実は事実で変わらんからな」 「パパは自分がカッコいいって言われても、嬉しくないノ?」 『可愛い』と言ってもらえることが嬉しいナターシャには、氷河の考え(むしろ感性)に無条件で賛同・共感することはできないらしい。 ナターシャは 不思議そうに、二度三度 瞬きを繰り返した。 「相手によるな。名も知らない通りすがりの他人に そんなことを言われても、だからどうなるというものではないだろう。ナターシャや瞬に言われるのは嬉しい。瞬が俺に そんなことを言ってくれた ためしはないが」 氷河が ちらりと、アテナの聖闘士でなければ気付けないほど短く素早い一瞥を、瞬に向かって投じる。 その一瞥に気付き、その一瞥の意味するところも わかっているのだが、わかるからこそ、瞬は わからぬ振りをした。 「言ってほしかったの? 『ヒョーガハ、スゴクカッコイーネー』って」 「どうして そこまで見事な棒読みができるんだ」 氷河が、むしろ感動したような顔になる。 ナターシャには、いかにも気持ちのこもっていない瞬の一本調子の声が奇異に思えたらしく、理解不能の目を瞬に向けてきた。 「ドーシテ? ドーシテ、ボーヨミなの? マーマはパパのこと、カッコいいって思ってないノ?」 「そんなことはないよ。僕はただ、『氷河はカッコいい』って言うより、『ナターシャちゃんは可愛い』って言う方が、氷河が喜ぶことを知ってるだけ。それに、氷河が いちばんカッコいいのは、氷河が カッコわるい時だから」 「カッコわるいのに、カッコいいノ? ナターシャ、わかんないヨ!」 「ナターシャちゃんや世界の平和を守るために、ぼろぼろになって戦ってる時の氷河が、僕には いちばん恰好よく見える。そういう意味だよ」 やっとマーマが ナターシャにも意味のわかることを言ってくれた。 そういう顔になって、ナターシャが大きく頷く。 その意見には、ナターシャも異論はないようだった。 「ウン。でも、パパはいつもカッコいいヨ! オシゴトしてる時にも、公園でナターシャと遊んでる時にも、お買い物に行った時にも、みんながそう言う。それで、マーマはキレイだって、みんなが言うノ。ナターシャ、そう言われると、とってもとっても嬉しい気持ちになるんダヨ!」 ナターシャが『嬉しい』と感じることを よくないことだと言うつもりはないが、ナターシャが嬉しいと感じることに、瞬は苦笑するしかなかった。 勘のいいナターシャが、瞬の困惑を感じ取って、少し不安そうな目でマーマの顔を見上げてくる。 「マーマは、みんなにキレイって言われても嬉しくないノ?」 「嬉しくないことはないけど……。『綺麗』って言われるよりは、『強い』とか『親切だ』とか――そうだね。『ありがとう』って言われるのが、僕は いちばん嬉しいかな」 マーマは『綺麗』と言われるのが嬉しくないのではなく、言われて嬉しい言葉が別にある。 瞬の説明は、ナターシャの質問に正面から答えたものではなかったが、事実を知らせることが必ずしも“よいこと”とは限らないだろう。 人に『綺麗』と言われることをマーマは 嬉しいとは思っていない――という事実を ナターシャが知れば、ナターシャは それを嬉しいと感じることに 罪悪感を抱くことになりかねない。 その事態を避けるために、瞬は その場を『ありがとう』でごまかした。 ナターシャが 安堵でできた笑顔を作る。 「ナターシャも、『ありがとう』は、言うのも言われるのも好きダヨ。デモ、ナターシャは『可愛い』って言ってもらえるのも嬉しいヨ。パパとマーマに言ってもらうのが いちばん嬉しいけど、よその人に言ってもらうのも嬉しい。よその人は、パパとマーマとナターシャを一緒にまとめて、『キレイなゴカゾク』って褒めてくれるカラ」 『綺麗な ご家族』と言ってもらえることが嬉しい。 では、ナターシャは、自分が パパとマーマと一緒にいられることが嬉しく、自分が“家族”の一員であることが嬉しいのだろう。 つまり、自分が孤独ではないことが。 自分が一人ぽっちではないことが。 ナターシャが嬉しくて楽しいのなら、それが何より大事である。 瞬は、ナターシャの希望を容れることにした。 |