「は?」
それまで誰にも否やは言わせぬと言わんばかりに 傲然と構えていたパンドラが 初めて、その態度を崩す。
もとい。彼女は態度を崩したのではない。崩されたのだ。
氷河に恋人がいないという事実によって。
氷河に恋人がいないという事態を、彼女は考えてもいなかったらしい。

「そうなのですか?」
と氷河に尋ねるパンドラの目は、まるで想像上の動物と思われていた生き物に現実世界で出会ってしまった人間のそれのようだった。
そんなパンドラとは対照的に、それまで力無く瞼を伏せていた瞬が、絶望の国で希望の光を見い出した人間のように 瞳を明るく輝かせる。
そんな瞬とパンドラを見比べて、星矢と紫龍は思い切り 複雑な気持ちになってしまったのである。

「だってさー。婚約者がいるのに、恋人なんか作ったら まずいだろ」
星矢は、さほど おかしなことを言っているつもりはなかったのだが、パンドラは 星矢のその言葉に、明らかに 激しく動揺していた。
「まずい……ことは まずいですが、普通の男性は、押しつけられた婚約者を諾々と受け入れたりはしないものでしょう。強大な力を持つ一国の王なら、なおさら……」
「普通の男ならな。だけど、氷河は普通の男じゃないんだよ。氷河が 押しつけられた婚約者に反発してなかったとは言えないけど、それは他に妻にしたい女がいたからじゃない」
「普通の男ではない……?」
「そ。だからって、氷河が 氷の国の王の義務を果たさなければならないなんて、殊勝な心掛けの持ち主だってわけでもないけどな。氷河は、普通の男じゃなく、重度のマザコン男なんだよ。マーマ以外の女は どれもおんなじ、興味なし」
「……」

氷の国の王が何者であるのかを知らされたパンドラが、暫時、死者が氷漬けになっているという冥界のコキュートスもかくやとばかりの深く冷え切った沈黙を作る。
しばらく経ってから、彼女は、
「そういうパターンは考えていませんでした……」
と、呻くように低い声を洩らした。

「王妃の すり替えは、氷河に恋人ができるまで待つしかないんじゃないか? それが何年後になるのかってことには、俺にも皆目 見当がつかないけど」
星矢が口にした“致し方のない仕儀”に、パンドラが不満の気持ちを隠そうともせず、ぎりぎりと歯噛みをする。
そんなパンドラの横で、瞬は何も言わずに嬉しそうに瞳を輝かせていた。
再び パンドラと瞬を見比べて、星矢と紫龍は 更に複雑な気持ちになってしまったのである。


「それにしても――こんな世界中の人間を騙す詐欺の片棒を担がされるとは……」
紫龍が いかにも話題を変えるためとしか言いようのない唐突さで そんなことをぼやいたのは、想定外の事態に進退窮まってしまったような状態のパンドラを気遣ってのことだった(かもしれない)。
残念ながら、紫龍の気遣いは功を奏さなかった――パンドラに対しては、功を奏さなかった。
それで元気になったのは、パンドラではなく瞬の方だった。

「こんなことになってしまって、申し訳ありません。氷の国の王宮内に協力者を作るなら、古い慣習や考え方に囚われている お歳を召した方より、柔軟な考え方のできる若い人の方がいいだろうと、兄が お二人を薦めてきたので――」
「炎の国の王の推薦とは、光栄の極みだ」
「すみません」
「いいじゃん、いいじゃん。面白そうで。氷河の奥方様ってんじゃないなら、俺たちが おまえとナカヨクなっても何の問題もないな。俺、星矢ってんだ。こっちが紫龍」

「存じあげています。瞬です。よろしくお願いします」
進むべき方向を見失って身動きがとれなくなってしまったパンドラに代わって、瞬が活動を始める。
出しゃばりの(たち)はないようだが、瞬は 必要とあれば、自分の判断で行動する自主性の持ち主のようだった。
自分の意思を持たない ただのお姫様ではないらしい。
しかも、その姿は 目の覚めるような美少女。
星矢は瞬が大いに気に入って、持ち前の人懐こさを発揮し始めた。

「こっちこそ、よろしくな。で、もう わかってると思うけど、そこの王座に ふんぞり返ってるのが氷河」
星矢が、仮にもこの国の王、形だけでも瞬の夫を、まるで 物のついでのように紹介する。
こんな扱いを受けても、氷河は未だに腹を立てる気力さえ湧いてこずにいた。
そもそも 氷河は確かに王座に座っていたが、ふんぞり返ってなどいなかった。
彼は むしろ前屈みになって、自分の運命の数奇に苦悩していたのである。
普通の政略結婚なら、その当事者として どう振舞えばいいかは おおよその察しがつくが、これは先例のない大椿事、どう考えても 空前絶後、前代未聞、人類が初めて経験する経験、未曾有の事態なのだ。
どう振舞うのが適切か、まるで見当がつかない。

そんな氷河に比べれば、瞬は はるかに順応性と臨機応変の才に恵まれているようだった。
「はい。氷河様。ご迷惑をおかけします」
あくまで礼儀正しく 氷河に謝罪する瞬は、だが、妙に生き生きしていた。
そして、星矢は、氷河と違って、いかなる責任も負っていない分、気楽である。
星矢は この先例のない大椿事を、完全に楽しんでいた。

「こんな美少女が陰謀仲間かあ。わくわくするなー」
「僕のせいで、こんな面倒事に巻き込まれたのに、そんなふうに言ってくださるなんて、星矢様は お優しい方なのですね」
「“星矢様”はやめろって。俺たちは無位無官の、言ってみれば 氷河づきの幇間(ほうかん)みたいなもんだから。星矢でいいよ」
「うむ。星矢は本当に面白がっているだけだから、済まながる必要はない」
「紫龍様……」
瞬は、事実を告げただけの紫龍の その言葉も 気遣いから出たものと受け取ったらしく、氷河の幇間たちの優しさに すっかり感動しているようだった。

大いに盛り上がっている星矢たちとは対照的に――星矢たちが盛り上がっているからこそ――氷河は がっくりと肩を落とし、脱力しきっていたのである。
氷河は 今は、やたらと元気な同国人の星矢たちより、呆然自失状態の異国人のパンドラの方に、親近感を覚えていた。






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