ともあれ、そういう経緯で、氷河と瞬の偽りの夫婦生活が始まった。 始まったのは、あくまで“偽りの夫婦生活”で、“真実の夫婦生活”は 始まりようもなかったのだが。 氷の国の王の最も重要な仕事は、自制心を失って氷の力を発動しないことである。 普通の王としては(?)、外交と内政面での適材適所の実行と、各種国事案件の決裁、各種公式行事への出席等の仕事があった。 そして、もう一つ、世継ぎを儲けるという重要な義務。 氷河は これまでは、決して勤勉かつ使命感にあふれた王ではなかった。 せっかく有能な家臣がいるのだから、彼等の邪魔はせず、国と国民への背任行為に及ぶ官吏がいないかどうかを監視していればいいだろう――くらいの姿勢でいたのである。 だが、氷河は、偽りの妻を迎えてからは、それまでとは打って変わって熱心に王の仕事に勤しみ始めたのである。 もちろん、それは“世継ぎを儲けること以外は”という限定的な勤勉だった。 氷河が 突然 真面目に王の務めに取り組むようになったのは、美貌とは言えない奥方を避けるためなのだろうと、多くの人間は推察し、氷河の豹変に納得していた。 女官長や国務大臣たちが どれほど 新王妃は美しいと訴えても、瞬の姿を見る機会に恵まれない大多数の者たちは、彼等の言葉を“立場上、つかなければならない嘘”もしくは“義務として口にする世辞”の類と信じて疑わなかったのである。 なにしろ、真面目に王の職務に 勤しみ始めた氷河は、“世継ぎを儲ける仕事”にだけは 全く意欲を示さなかったのだから、それも道理。 示しようもないことを知っているのは、氷河当人の他には星矢と紫龍だけ。 へたに瞬の美貌(だけ)を見知ってしまった女官長と大臣たちは、氷河の偏った勤勉に憤りを禁じ得ずにいるようだったが、こればかりは 誰にも どうにもできず、今のところは経過観察状態。 氷河に恋人ができるまで、任務の遂行が不可能になったパンドラは すっかり大人しくなり、しきりに一輝の指示を仰ぐために国に帰りたいと言っているらしい。 しかし、そのために 瞬から目を離す決意もできずに 悶々としているようだった。 瞬はといえば、氷河の恋人と入れ替わる時が猶予されたことを喜び――だが、喜んでいたのは最初の数日間だけ。 氷河が仕事にかまけて 意図的に自分を避けていることに気付いてからは、瞬は すっかり気落ちしてしまっていた。 「僕……顔も見たくないほど、氷河様に嫌われてしまったのでしょうか……」 氷河が真面目に公務に勤しんでいる間は、無位無官の幇間たちは暇である。 星矢と紫龍は、本来は氷河がするはずだった王城内の居住域や庭園の案内を任され、氷河に代わって、氷の国の宮廷特有のしきたりや王室の歴史等を教えているうちに、すっかり瞬と打ち解け、親しい友人になっていた。 王に顧みられないとはいえ 仮にも王妃が、王当人より その友人たちと親しくしていることに、女官長は おかんむりだったが、それが公的な“朝廷”ではなく 私的な“宮廷”でのことに限られていたので、彼女も真っ向から星矢たちを咎めだてするようなことはしてこなかった。 星矢と紫龍が常に二人連れで、瞬に対して 個別に接することがなかったせいもあるだろう。 氷河が瞬を完全に無視していることを、氷の国の国民として 申し訳なく思っていたところもあったかもしれない。 氷河の母が好きだった薔薇園の薔薇は、今が盛り。 咲き誇る薔薇たちの中で 瞬にしょんぼりされて、星矢と紫龍は 少々 気詰まりに、互いの顔を見合わせることになってしまったのである。 「僕は、氷河様の運命を狂わせてしまった贖罪のために、一生、氷河様のお側でお仕えしたいと――いえ、氷河様が 愛する方に巡り会うまで、氷河様のお仕えしたいと思っているんです。氷河様には、それすらも ご迷惑でしょうか……」 「あー……それはさ……」 瞬の覚悟は健気だと思うのだが、異国から嫁いできた身、公に姿を見せられない身、しかも男子の身で、どうやって“氷河様に仕える”というのか。 瞬が少女なのであれば、ただ側にいるだけでも 十分に氷河の目や心の保養になるだろうが、運命は、氷河と瞬に そんな ありきたりの日常的安らぎを許してはくれなかったのだ。 「氷河は、おまえを 本当の妃にできないのがショックなんだよ。それを忘れるために、急に真面目に 王様稼業を始めたんだ。女版一輝が出てくると思って 覚悟を決めてたら、途轍もない美少女がやってきて 大喜びしたのも束の間、その美少女を妻にできないとわかって――氷河は、要するに ひどいぬか喜びをさせられたわけだろ」 「一瞬で、天国と地獄を味わったようなものだからな。だが、氷河は おまえを嫌っているわけではないと思うぞ。むしろ、好意を持っているから避けているんだ。氷河にとって、おまえは 手に入れ損なった幸福。見ていることが つらいのかもしれん」 氷河は、彼が 瞬に関して思うところを 星矢たちにも率直に語ってくれなかったので、それらの言葉は推測にすぎなかったのだが、星矢たちは それを正鵠を射た推測――つまり、事実――だと、ほぼ確信していた。 とはいえ、現実に 瞬の前にあるのは、初対面の時以来、氷河が瞬の許を訪れないという事実だけ。 瞬には、星矢たちの言葉を 言葉通りに受け入れることはできなかったようだった。 「慰めてくれて、ありがとう。星矢、紫龍」 瞬が、つらそうな笑みを 星矢たちに向けてくる。 男子の服を身につけているせいで かえって可憐さが際立つ、瞬の特異な風情、佇まい。 その瞳が切なげに潤んでいるのが、本物の少女より 美少女めいて見えて、質が悪い。 瞬に対する氷河の気持ちより、男子としての自覚はあるらしい瞬の氷河への気持ちの方が、星矢には不可解だった。 「氷河様の幸せだけが、僕の望みです。早く、美しく心優しい恋人に巡り合って、その方と御子を儲けてほしい。そうなった時に初めて、僕の罪は贖われることになると思うんです……」 |