「あれほど美しい奥方様を迎えることになり、氷の国も安泰と 心を安んじておりましたが、王妃様の許に一向に陛下のお出ましがないと、女官長が訴えてまいりまして……。王の最も重要な仕事は、王妃様と親密な姿を過ごすことで、ジャガイモの収穫の視察をすることではないだろうと、女官長は怒り心頭。私だけでなく、農務大臣まで吊るし上げを食らってしまいました」

総務大臣が氷河の私室に苦情を言い立てにきたのは、氷河が勤勉な国王になって ひと月が過ぎた頃。
総務大臣は、氷の国の国務大臣の中では最年長で、既に老齢といっていい域に達している。
人の扱いが如才ない点を買われて当該職に就いている人物なので、度重なる女官長のヒステリーを いよいよ抑えきれなくなっての、この訪問なのだろう。
星矢と紫龍は、本来は百戦錬磨の大臣の 弱り切った様子に、心から同情した。
女官長の憤りもわかるだけに、彼等も 迂闊なことは言えなかったが。

氷の国のみならず、この地上世界に生きる すべての人間の宿願叶って、100年振りに実現した 氷の国の王家と炎の国の王家の血の融合(の準備段階である両家の婚姻)。
王と王妃の間に首尾よく 両家の血を引く王子もしくは王女を誕生させることが、女官長の重大な任務。
その任務に成功すれば、女官長は世界を滅亡の危機から救った英雄となり、失敗すれば 彼女は世界の平和を築き損ねた敗残者となるのだ。
嗣子の誕生は、人の力だけでは どうにもならないものなので、その成否で彼女の功罪を評価する者はいないだろうが、王と王妃が親しく交わっていない状況については、彼女はその手腕を疑われることになる。
彼女は、祖国と地上世界のために、彼女の重要な責務を果たしたいと熱望しているのだ。

総務大臣は彼女の気持ちと立場を重々承知している。
むしろ 彼は、女官長と ほぼ同じ立場に立つ人間。
当然のことながら、彼は、
「あー。王妃は確かに美しいが、まだ幼く、そういうことは これからゆっくり……」
などという、頼りない王の弁明で引き下がってはくれなかった。
「これから ゆっくりでは困ります。王妃様の お美しさを存じあげない者共は、お二人の間で 交わりが成立するかどうかという、下賤な賭けをしている不心得者もいるらしく、いつまでも現状を放置していると、王家の尊厳が損なわれます」

髪も顎髭も白い痩身の総務大臣は、
「陛下の男性としての能力まで疑われているのです。本当に支障があるのであれば、厚生大臣に 腕のいい医師を手配させます」
という領域にまで言及してきた。
地上世界を滅ぼす力を持った王が、
「その方面に支障はない」
と弁明することの情けなさ、みっともなさ。

総務大臣は、
「王妃様の寝所に赴き、そういうことをしている振りだけでもして、民を安心させていただきたい」
とまで言って、王と王妃の親密さのアピールを 彼の主君に命じた。
そうしてから、星矢と紫龍に交互に目配せをして、王の私室を出ていく。
彼の目配せは、もし 氷河が激することがあったなら 落ち着かせてほしいという意味のものだったろうが(そのために星矢と紫龍はいる)、幸か不幸か、その必要は生じなかった。
激するどころか、氷河は極めて静かだった。
静かに、総務大臣の姿が消えた室内に、
「瞬に初めて会った あの日、俺は 一目で恋に落ち、一瞬で失恋した……」
という氷河の声が響く。

「そうなんだろうと思ってたよ」
伊達に近習として、いつも氷河の側にいるわけではない。
そして、氷河も、伊達に彼等を いつも側においていたわけではない。
星矢たちが、“そうなんだろうと思っていた”ことには、氷河も気付いていたようだった。
そうなんだろうと思っていた星矢たちに、氷河は驚いた様子は見せなかった。

「好きになったものは仕方がないと思う。瞬の あの澄んだ瞳は、俺には運命的なものだった。好きになって当然だったと、たった今も思っている。俺は そうだ。だが、瞬はそうではないだろう。俺が瞬に好きだと打ち明けたら、瞬は 俺に異常者を見る目を向けてくるかもしれない」
「……かもな」
氷河と一生を共にすることはできないと知らされて 何日も泣き伏した瞬は、だが、涙を拭いて立ち上がり、氷河サマの幸福のために、氷河の恋人と入れ替わることを決意して、氷の国まで やってきたのだ。
瞬の倫理観は いたってまとも。
その倫理観が正しいかどうかという問題は さておいて、普通で一般的なものであることは確かである。
瞬が 氷河の恋を異常なものと思うことは(正常なものではない思うことは)実に ありそうなことだった。

そして、もう一つ。
氷河が瞬の他に恋人を作らなければ、入れ替わる相手のいない瞬は いつまでも氷河の側にいなければならないという現実がある。
偽りの夫婦としてなら、氷河は瞬を側に置くことは――置くことだけはできるのだ。
「俺は瞬が男子でもいいと思い始めている。自分で自分が信じられん。瞬の側に行ったら――まして寝所なんかに行ったら、自分が何をしでかすか わからないから、俺は瞬を避けているんだ」
「おまえにしては、実に慎重で懸命な判断だ。だが、今の状態に耐えられるのか? おまえは、いつまでも」
「……」

『炎の国の王家と氷の国の王家では、過去に幾度も血の融合が行なわれてきました。氷河殿にも炎の国の王家の血は流れています。炎の国の王の力と 氷の国の王の力は、今では 原初の頃ほどには 純粋なものではなくなっているのです。民が考えているように、両国の王が その力を爆発させるようなことは、よほどのことがない限り、起きない。我々が防がなければならないのは、王の力ではなく 民衆の感情の爆発。大事なのは、氷の国の王の側に 炎の国の王家の血を引く妃がいて、それによって氷の国の王の力が抑えられていると、民衆が信じ、恐慌状態に陥らないことなのです。氷河殿と氷河殿の恋人の間に御子ができたなら、その御子には 炎の国の王家の血と氷の国の王家の血が受け継がれる。その御子が次代の氷の国の王になる。それで、何の問題もございません』

パンドラは そう言っていた。
それが事実なのであれば、氷河と瞬が子を儲けなくても、地上世界の存続は成る。
氷河と瞬が ただ共にいるだけで、民衆は 滅亡の不安と恐怖に囚われることもない。
問題は、偽りの夫婦として過ごす状況に、氷河と瞬が 耐えられるのかどうかということなのだ。

「……まったく自信がない」
それが氷河の返事だった。






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