ナターシャが 氷河に“高い高い”をねだらなくなったのは、光が丘公園で起きた ある出来事のせいだった。 光が丘公園は、練馬区最大の都立総合公園である。 その公園内にある ちびっこ広場は、様々な遊具が置かれていて、遠方から家族連れが遊びにやってくるほどのレジャースポット。 週末の晴れた日には、人気の遊具には いつも待ち行列ができている。 ある日、その待ち行列が とても長くて、行列の最後尾につくか、待ち行列のない他の遊具で遊ぶかを迷うことになったナターシャに、氷河が“高い高い”をしてやった。 ――まではよかったのだが、歓声をあげて氷河の“高い高い”を喜ぶナターシャに気付いた よその家の子供たちが、素晴らしい遊具を見付けたとばかりに、氷河の前に待ち行列を作り始めてしまったのだ。 期待に瞳を輝かせ 行儀よく順番を待っている子供たちを すげなく追い散らすわけにもいかず、成り行きで、氷河は その子供たちにも“高い高い”をしてやる羽目に陥ってしまった。 よその家の子にパパを取られたと、すっかり おかんむりのナターシャは、それ以来、よその家の子供たちが大勢いる土日の日中には、決して氷河に“高い高い”をねだらなくなり、他の子供たちと同じようにターザンロープやザイルクライミングの待ち行列に並ぶようになったのである。 その出来事があった日から4週間後の その日。 瞬たちと一緒に光が丘公園にやってきたナターシャは、ちびっこ広場の案内板が見えるところまで来ると、ニンジン畑を見付けたウサギのように、ちびっこ広場に続く小径を猛スピードで駆け出した。 晴れた日曜日の朝。 先に ちびっこ広場に来て遊んでいる子供たちの楽しそうな声が、ナターシャの心を急かしたのかもしれない。 「ナターシャちゃん、そんなに慌てないで」 大勢の子供たちの楽しそうな声は、ナターシャの心を急かしたが、それは 逆に瞬の気持ちを落ち着かせるものだった。 光が丘公園のちびっこ広場は、遊具だけでなく、樹木も多い。 そのため、広場で遊んでいる子供の姿が木の陰に入って見えなくなることが ままあるので、親たちは いつも子供たちから目を離さないように注意しなければならない。 いつも ナターシャの身辺に気を配り、その気配を見失うことのない瞬も、ナターシャの姿を見失うことは しばしばあった。 大勢の子供の声があるということは、その子供たちを見守っている大人の目も多いということで、不審者も近づきにくくなり、瞬も安心できるのである。 もちろん、だからといってナターシャの安全確認を よその家の親たちに任せっぱなしにはできない。 氷河と瞬もナターシャの後を追って、ちびっこ広場に入っていった。 おそらく、ナターシャに遅れること2、3分。 ナターシャのお目当てのターザンロープには、既に5、6人の子供たちで順番待ちの列ができていた。 が、てっきり その行列に並んでいるものとばかり思っていたナターシャの姿が見当たらない。 「ナターシャちゃん !? 」 ナターシャは、並ばずに済む別の遊具で遊ぶことにしたのだろうか。 瞬は慌てて、周囲を見回したのである。 幾つもの遊具、緑の葉を繁らせた木々、大勢の子供たちと その保護者たち。 決して見通しがいいとは言えない ちびっこ広場で、瞬は、目より先に耳で、ナターシャを見付けることになった。 「おじちゃん、アリガトウ、ばいばーい!」 ナターシャが誰かに向かって、手を振っている。 ターザンロープから少し離れた滑り台の脇。 瞬がナターシャから目を離していた2、3分の間に、ナターシャは、どこかの“おじちゃん”に、『アリガトウ』を言わなければならないようなことをしてもらったらしい。 瞬は咄嗟に、慌てすぎ急ぎすぎたナターシャが 転ぶか 人にぶつかるかしたところを、よその“おじちゃん”に助けてもらったのだろうと考え、ナターシャの許に駆け寄っていったのである。 ナターシャは、だが、転んだりした様子はなく、ただ満面の笑みを浮かべ、右の手を大きく振っているだけだった。 「ナターシャちゃん、どうしたの。何があったの。おじちゃん――って?」 付近に それらしい男性の姿はない。 瞬が尋ねると、ナターシャは、 「お寝坊して出遅れたおじちゃんダヨ」 と、今一つ 要領を得ない答えを返してきた。 瞬が知りたいのは、“おじちゃん”の肩書きではないことを理解しているナターシャが、すぐに、“お寝坊して出遅れたおじちゃん”に自分が『アリガトウ』を言うことになった経緯を瞬に知らせてくる。 「おじちゃんは、けやき広場のフリーマーケットに来たんだけど、お寝坊して出遅れたんだっテ。それで、場所がいっぱいで、お店を出せなかったんだヨ。ナターシャに似合うからって、フリーマーケットに出すつもりだった綺麗なペンダントをくれたノ。きらきらしてて キレーイ!」 そう告げるナターシャの首には、家を出る時にはなかったペンダントらしきものが掛けられている。 それで、瞬は、とりあえず おおよその経緯は理解できた。 光が丘公園のけやき広場では、日曜日に 頻繁に フリーマーケットが開催されている。 フリーマーケットへの出店は、事前予約もできるらしいのだが、当日受付は受付順。要するに早い者勝ち。 人出が多いので、光が丘公園のフリーマーケットは いつも盛況だった。 寝坊して出遅れたせいで 出店スペースを取れなかった“おじちゃん”が、自分の店先に並べるはずだったペンダントをナターシャにくれた――ということらしい。 ナターシャの首に掛かっているのは、いかにも素人の手作りといった風情の大振りのペンダントだった。 「くれた……って、ただで?」 「ううん。ナターシャが持ってたキャンディと交換した」 「それは……そのおじちゃんは どっちに行ったの? お礼をしなきゃ」 自分が作ったアクセサリーを 誰かに身につけてもらえるなら、それだけで嬉しいと考える人だったのかもしれないが、だとしても 手作りのアクセサリーとキャンディの交換は、等価交換とは言えない。 キャンディとナターシャの『ありがとう』の他に、最低でも大人からの『ありがとうございます』をつけなければ申し訳ない。 瞬は そうおもったのだが、その“おじちゃん”の姿は もう ちびっこ広場から消えてしまったあとらしく、ナターシャは二度ほど首を横に振った。 「ナターシャちゃんにペンダントをくれた おじちゃんは、どんな人だったの? 公園でよく見掛ける人?」 「初めて見た人だったと思ウ」 「そう……。今日でなくても いつでも、もし見掛けたら、すぐに 僕か氷河に教えてね。ナターシャちゃんに 素敵なものをありがとうございましたって、僕からも お礼をしたいから」 「ウン。ふふふ」 お寝坊な おじちゃんからもらったペンダントが よほど気に入ったのか、ナターシャはターザンロープのこともすっかり忘れているようだった。 繊細な作りとは言い難いペンダントトップを確かめて、ナターシャは すっかり ご満悦の体である。 幼いなりに 好みがうるさく、リボン一つ買うのにも、お店で15分は吟味するのが常のナターシャが、それほど気に入るとは。 いったい その素朴な作りのペンダントの何が、それほど強くナターシャの心を捉えたのか、瞬は 少なからず奇異の念を抱くことになったのである。 |