偉大な父娘(おやこ)の偉大さの是非は ともかく。
「パパがナターシャくらいの時の パパの夢は何だったの?」
偉大な娘は、偉大なパパの夢を知りたくなったらしい。
ナターシャに問われると、氷河は一瞬――本当に一瞬だけ 間をおいて、
「俺の夢は、瞬に好きだと言ってもらうことだった。ガキの頃からずっと」
と、ナターシャに答えた。
氷河が『俺の夢は、マーマを俺の手で幸せにすることだった』と答えないのは、叶わなかった夢の話をナターシャにしたくないから――なのだろう。
滅茶苦茶ではあるが、氷河も やはり“大人”の一人なのだ。
パパから どんな難しい夢の話を聞けるのかと期待していたらしいナターシャが、パパの夢の内容を知って、きょとんとした顔になる。

「エ? マーマは最初から、パパのことを好きだったんじゃないノ?」
「俺と瞬も、最初の最初は知らない者同士だったからな。人間というのは、誰だって そうだろう。最初は 知らない者同士。それから仲良くなっていくんだ」
「ソッカー。ウン、そうダネ」
「そうだ。瞬に出会って、瞬を好きになって、だから 俺は、瞬に好きになってもらうために一生懸命 頑張ったんだ。瞬は綺麗だし、優しかった。だから、みんなに好かれていた。ライバルは大勢いた。実の兄貴は、俺を目の敵にして 俺を瞬に近付けまいとするし、瞬は やたらと真面目で、勉強や仕事に熱心だったから、俺は なかなか 瞬に好きだと言ってもらえなかったんだ。ずっと友だちのままだった。それでも 俺は決して諦めずに、瞬を好きだと言い続けた。瞬に好きだと言ってもらって、ナターシャに出会って 一緒に暮らせるようになるまで、20年以上の時間がかかっている。そんなふうに、夢というのは 簡単に叶うものじゃないんだ。簡単に叶ってしまったら、詰まらない」

一つの夢を叶えるのに20年。
それは、ナターシャには あまりにも長い時間だったのだろう。
ナターシャは、氷河の長い長い苦節の時に驚いたように 瞳を見開き、それからカウンターの中にいる氷河に尊敬の眼差しを向けた。
そして、その後、彼女は少し不安になったらしかった。
「パパの夢は叶ったんだヨネ? パパは、今は夢がないノ? パパは今、詰まらないノ?」
たくさんの夢があって幸せなナターシャは、たくさんの夢があるからこそ、叶ってしまった夢しかない氷河の今が心配になったらしい。
ナターシャは、叶ってしまった夢が 夢でなくなることを理解しているようだった。
彼女の心配は、もちろん杞憂だったが。

「とんでもない。俺には まだまだ たくさんの夢があるからな。差し当たって 今は、星矢といる時より、瞬を明るく屈託なく笑わせられる男になりたいと思っている。紫龍のラーメンより 美味いものを作れるようになって、瞬を喜ばせてやりたいと思っているし、瞬が 一輝より俺の方を頼るようにしたいとも思っている。俺は、ありとあらゆることで、瞬の いちばんになりたいんだ。それが 俺の夢だ」
「氷河……!」

できれば、そんなことを、蘭子のいるところで言わないでほしい。
蘭子の意味ありげな視線を気まずく感じながら、瞬は そう思ったのである。
そう思いながら、氷河の今の意外な“夢”に、瞬は少なからず 驚いていた。
そんな夢を、氷河が抱いていたとは。
氷河の大人になりきれなさは、もしかしたら、彼の夢のせいなのかもしれない――と思う。
氷河は 今でも、叶わぬ夢を幾つも抱えている“少年”なのだ。
かなり――傍迷惑な少年ではあったが。

「ああ、それから、瞬とナターシャを ろくでもない男に取られないよう、日々 粉骨砕身してもいる。ナターシャを立派な大人にしなければならないし――叶えたい夢は腐るほどある。そのために、毎日 頑張っている。詰まらながっている暇は、俺にはないんだ」
「ソッカー。パパは今は、マーマとナターシャを ロクデモナイ男に取られないように、ヒビ フンコツしてるンダー。パパはエライネー!」
パパには叶えたい夢が たくさんあって、詰まらながっている暇はない。
氷河のその言葉に、ナターシャは安心したらしい。
パパがエライこともわかって、ナターシャは ご満悦。
彼女は 満面の笑みで、今度は瞬に、
「マーマのコドモの頃の夢は何だったノ?」
と尋ねてきた。

その質問が発せられることを、瞬は想定していて しかるべきだった。
にもかかわらず、その事態を全く考えていなかったので、瞬は 暫時、虚を衝かれた顔になってしまったのである。
瞬の子供の頃の夢。
それは もしかしたら永遠に叶わない、しかし、だからこそ永遠に追い続けることのできる夢だった。

「僕の夢は、子供の頃も今も変わらないよ。みんなの夢が叶うこと――ナターシャちゃんやみんなが夢を諦めずに済むように、世界の平和を守りたいし、病気や怪我で苦しんでいる人がいたら 助けてあげたいし、困っている人の力になりたいし――」
「夢が叶わない人や諦めちゃう人もいるノ?」
「えっ」
うっかり気を抜いて 迂闊なことを言ってしまったと、一瞬 瞬は臍を噛んだ。

ここでナターシャに、『夢が叶わない人は たくさんいる』と言いたくない。
あの高校生が『教えておいてほしかった』と叫んでいた言葉。
だが、瞬はナターシャに教えたくなかった。
たくさんの夢を持って 幸せに輝いているナターシャに、どうして そんな夢のないことを言えるだろう。
『夢が叶わない人は たくさんいる』ことを知っている大人だからこそ、瞬はナターシャに その事実を教えたくなかったのである。
だというのに。

黙り込んでしまった瞬の代わりに氷河が、ナターシャに教えてしまったのだ。
「もちろん、いる」
――と。
ナターシャに嘘をつきたくない氷河の気持ちはわかるのである。
決して 嘘をつけないわけではないのに――他愛のない嘘なら、むしろ 平然とついてしまえるのに――氷河は、彼の愛する者、彼にとって大切な者たちには嘘をつかない。
重要なことほど、偽りを嫌う。
それは、冷酷や無思慮ではなく、氷河の誠意なのだ。
嘘をつきたくないのなら、“沈黙する”という対応を採ることもできるのに、氷河は その道を選ぶことはしないのである。

それが氷河の誠意だということは わかっている。
だが、ナターシャは まだ小さな――まだ幼い子供なのだ。
夢が叶わないことなど知らずに、大きくて素敵な夢を夢見て 瞳を輝かせていてほしいではないか。
とはいえ。
『最初から、夢が叶わないこともあるんだってことを教えておいてくれれば、夢が叶わなくても絶望したりしなかったのに!』
その夢を失った子供の叫び。
瞬は、氷河の言を否定することも、彼を止めることもできなかった。
瞬の心には まだ迷いが残っていたから。
そして、その迷いの他に。

彼にとって“どうでもいい”存在である見知らぬ高校生には、『そのガキが 生きるに値する人間なら、何か考えるさ』と言った氷河が、彼の愛する 彼の大切な娘に どんな言葉を与えるのか。
それを知りたいという気持ちが、瞬の中にはあったのである。






【next】