パンの代価






日本ならば“立志伝中の人物”と表され、米国ならば“アメンカンドリームの体現者”と呼ばれるのだろう。
そういう人物をギリシャでは何と呼ぶのか。
“オナシスのような”?
そういえば、ギリシャ人で経済的に成功した人物を、自分は海運王オナシスしか知らない――と、瞬は思った。

その人物――ハジ=パパンドレウ氏は、ギリシャ人。
国自体は危機的状況にあるギリシャにも、富豪というものはいるらしい。
個人資産は推定16億ユーロ。日本円に換算して2000億円。
ギリシャで企業し、米国で大きく飛躍、大成功を収めた人物ということだった。
彼は、もともとは小さなパン屋の主人だったらしい。
それ以前は、住む家もない孤児。
肥満に難儀していた ある人物のために 太らないパンを考案し、パン屋を開店するための資金を出資させたのが、彼の躍進の第一歩だった――と、沙織は瞬に告げた。

彼が考案したパンというのが、実際にはハチミツやカスタードクリームを使わず、ハチミツやカスタードクリームの匂いだけがするパンだった。
人間は 舌だけでなく目と鼻で ものを食べるという点に着目した彼は、匂いだけが非常に甘い それらの低カロリーパンを、“カロリーは半分、満腹感は2倍のハチミツパン”、“カロリーは半分、満腹感は2倍のクリームパン”という商品名が書かれた包装紙に包んで売り出した。
彼は、匂いが強調されたパンを製造する方法で特許を取得。
そのパンが、肥満に悩む人間が多く、それゆえ 健康志向の強い先進国――特に米国で大売れ。
支店や工場を次々に増やし、現在のパパンドレウ食品グループを築くに至ったらしい。
IT分野(ソフト)ではなく、マネーゲームでもなく、物を作って財を成した、現代には稀有な業績の持ち主ということで、他の富豪や成功者とは一線を画した人物として注目されている――ということだった。

彼は、両親を早くに亡くし、極貧の少年時代を過ごした。
身一つからの成功。
彼は、ある経済誌のインタビューに、『貧しかった少年時代、私は 夢の中でパンを食べて、満腹になっていた』と語ったことから、『夢を食べて、成功した人物』と言われているらしい。
その人物が日本にやってきたのは、肉の香りと食感を持つコンニャクチップスの開発・製造と商品化の契約を 日本の企業と結ぶため――ということだった。


「そのパパンがパンがなぜ――」
「パパンがパンじゃなく、パパンドレウ氏」
氷河は もちろん意図的に、名を間違えた。
それを承知の上で、沙織は訂正を入れた。
だからと言って、氷河が 問題の人物を正しい名で呼び直すわけもなかったが。
氷河にとって、彼は、その名を口にしたくもないと思うほど、不愉快極まりない男だったのだ。
パパンドレウ氏は、彼から瞬を奪い取ろうとする大悪党だった。

「そのアンパンマンが なぜ、瞬を養子にしようなんて、非常識なことを考えることになったんだ」
「その理由は、私にもわからないわ。私と瞬のつながりを調べて、その話を まず私に持ってきたことも謎といえば謎。あなたたちが未成年で城戸の家にいた頃なら ともかく、今は瞬は独立した成人よ。直接 瞬に当たったって、何の問題もないのに」
「問題はあるでしょう。沙織さん経由の申し出でなければ、狂人の たわ言で一蹴される案件だ」
ここにいるのはグラード財団総帥にして、聖域の聖闘士たちを統率する女神アテナ。
その事実を思い出したのか、氷河が少し――ほんの少しだけ、言葉使いを丁寧なものに変える。
わざわざ 光が丘のマンションまで出向いてきてくれた沙織に、にこりともせず 仏頂面を向けている氷河に、瞬の方が申し訳ない気持ちになっていた。
沙織の持ってきた話は、確かに 氷河には愉快なものではないだろうし、瞬自身も ひどく困惑してはいたのだが。

「何かの間違いではないですか? そもそも、僕は その方を存じあげません。お名前も、今 初めて聞きました」
「あちらは、あなたを よく知っているようよ。パパンドレウ・グループは、肥満や生活習慣病の治療の分野に進出することを計画しているそうだし、“そういう方面”で瞬の存在を知ったのかもしれないわ」
そういう方面で瞬という名の医師の存在を知ったにしても、それは 日本国内に20万人近くいる医師の中から 瞬を選んで養子にしたいと考える理由にはならない。
おそらく 現時点でギリシャで最も富裕な人物の申し出は、瞬にとって、全く現実味のない、不可解な謎かけのようなものだった。

「沙織サン。ヨウシってナニー?」
三人掛けのソファの真ん中――瞬と氷河の間に、ちょこんと座っていたナターシャが、沙織に尋ねる。
平素から 感情を顔や言動に出すことが少なく、仏頂面に見える無表情でいることの多い氷河だが、ナターシャには 氷河の機嫌のいい時の仏頂面と 機嫌が悪い時の仏頂面の区別がつくらしい。
ナターシャには、今の氷河が 途轍もなく不機嫌でいるということが わかっているのだろう。
そして、その不機嫌のせいで不安になったらしい。
氷河に訊くと、彼の不機嫌がますます強く大きなものになることを知っているナターシャは、だから 沙織に訊いたのだ。
ナターシャを不安にしないために、沙織は軽快な声に笑顔を添えて答えた。

「瞬を自分の子供にしたいという人が現われたのよ」
「エ……」
ナターシャが一瞬、それでなくても大きな瞳を 更に大きく見開いて息を呑む。
沙織の言葉の意味が、ナターシャには わからなかったようだった。
「マーマは子供じゃないヨ! マーマは、ナターシャのマーマだヨ!」
大人の瞬が誰かの子供になるということが理解できなかったらしいナターシャが、沙織に訴える。
ナターシャの反駁は、実に尤も。
沙織は彼女に頷いた。

「そうね。でも、大人にもパパとマーマはいるのよ。10歳でも100歳でも、人は誰かの子供。ナターシャちゃんが20歳の大人になっても、氷河と瞬はナターシャちゃんのパパとマーマでしょう?」
ナターシャに そう告げてから、沙織は、
「もっとも、パパンドレウ氏は氷河と同い年だけど」
の一言を付け加えた。
その一言を聞いた途端、氷河はパパンドレウ氏を (たち)の悪い助平男と決めつけたのである。

「とっくに成人している瞬を養子に欲しいというんだから、60、70の年寄りなんだろうと思っていたのに、俺と同い年だと !? それで、俺より1つ年下なだけの瞬を養子にしようとは、どういう了見だ! そのアンパンマンは、ナターシャから母親を奪うつもりかっ」
「マーマがパン屋さんのヨーシになったら、マーマはナターシャのマーマじゃなくなっちゃうノッ !? 」
氷河の怒声に殴りつけられたように、ナターシャの声が泣き声めいたものになる。

「ナ……ナターシャちゃん、そんなことはないのよ。泣かないでちょうだい」
「僕は ナターシャちゃんが望む限り いつまでもナターシャちゃんのマーマでいるよ。僕は、パン屋さんの子供にはならないから安心して」
今にも その瞳から 涙を零しそうなナターシャを、沙織と瞬が 慌てて慰め、なだめ、同時に 氷河を睨みつける。
この地上世界で 一、二を争う強者二人と ナターシャの泣きべその挟み撃ちに会って、氷河は 助平なパン屋への立腹どころではなくなってしまったのだった。






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