パパンドレウ氏は、瞬と二人で会うことを望んでいたようなのだが、最終的に 折れてくれたらしい。 結局 瞬は、氷河とナターシャのボディガード付きで パパンドレウ氏に会うことになったのである。 場所はRCホテルのスイートルーム。 20名分の席がある応接スペース。 一泊200万円のスイートルームを、パパンドレウ氏は1ヶ月間 確保しているらしい。 そんなことすら 氷河には腹立ちの種でしかなく、ナターシャは 沙織の家でも見たことのない五人掛けのソファに、なぜか ご満悦だった。 ナターシャが ご満悦なのは、どんな恐いパン屋さんが出てくるかと身構えていたところに 登場したのが、パパよりずっと穏やかな顔つきの ごく普通の紳士だったからだったかもしれない。 望んでいなかったボディガード二人に対しても、彼の態度は やわらかく友好的で、彼はナターシャのために幾種類ものケーキの載った皿を用意しておいてくれた。 今回 契約する日本企業との 情報交換やミーティングは 日本語と英語で行なっているというパパンドレウ氏は、ナターシャを日本語で、 「とても 可愛らしい」 と褒め、更に、 「私は 瞬さんと大事な お話があるから、ナターシャちゃんは いい子にしていてね」 と言って、ナターシャを、“大人のお話を邪魔しない、お行儀のいい子”にするのに成功してしまった。 氷河には もちろん、パパンドレウ氏の そんな手際のよさも腹立ちの種でしかない。 ナターシャへの牽制は完璧にしてのけたパパンドレウ氏は、だが、不機嫌の極致といった体の氷河に対しては、その機嫌を取ろうとする様子を見せず、ごく自然に無視した。 そんなことをしても無駄だと、彼は 成功者の勘で感じ取ったのかもしれない。 そういうわけで 不機嫌全開モードを維持継続中の氷河が、それでもパパンドレウ氏に噛みついていかなかったのは、同い年のはずのパパンドレウ氏が 自分より5、6歳は年上に見えたから――では、なかった。 そうではなく――パパンドレウ氏が瞬に告げた、 「写真では拝見していたのですが、あなたは本当に、あの頃と少しも変わらない」 という言葉のせいだった。 瞬はパパンドレウ氏を知らないと言っていたが、パパンドレウ氏の方は瞬を知っているらしい。 助平なアンパンマンに噛みつく前に、“あの頃”二人の間に何があったのかを知る必要があると、氷河は判断したのである。 「あの頃?」 実際に会っても、瞬はパパンドレウ氏に関する いかなる記憶も情報も思い起こすことはできなかった。 “あの頃”が いつ頃なのかも わからないし、当然のことながら、その時に何があったのかも わからない。 瞬にとってパパンドレウ氏は、相変わらず“今日 初めて会った見知らぬ人”だった。 にもかかわらず、パパンドレウ氏は その事実を無視して、勝手に話を進めていく。 「ミケランジェロは、サン・ピエトロ寺院のピエタを発表した際、『マリアが若すぎる』と批判した人間に、『清らかな人は、いつまでも みずみずしいままでいるということを、あなたは知らないのか』と反駁したそうですが、その通りですね」 「そんなことは……」 「私の希望は、沙織さんから お聞き及びでしょう。私は、あなたを私の養子に迎えたいのです。本当は妻に迎えたいのですが、無理のようなので……。まさか、あなたが男子だったとは。こうして実際に 自分の目で見ても信じられません」 パパンドレウ氏は どうやら ごく最近まで――おそらく 沙織に知らされるまで、瞬が男子だということを知らずにいたらしい。 では パパンドレウ氏は、その程度しか瞬を知らない――知らなかった――ということになる。 パパンドレウ氏の言葉を聞いて眉を吊り上げた氷河に ひやひやしながら、瞬はパパンドレウ氏に、 「なぜ、僕なんでしょう」 と問うた。 パパンドレウ氏からは、 「私は独身で、妻子はない。天涯孤独で親族もいない。私は、私の財産をあなたに渡したいのです。その目的を 最もスムースに行なう方法は養子縁組だと考えました」 という、どこか的外れな答えが返ってきた。 財産を渡したい――それは厚意なのだろうか。 厚意のつもりなのだろうか。 彼の目的を聞いて、瞬は 更に混乱の度合いを深めることになったのである。 そもそも 2000億円の資産など、邪魔な荷物以外の何物でもない。 「沙織さんに伺いました。瞬さんは、沙織さんという経済的に申し分のない後ろ盾がありながら、ご自分の力だけで学費を作り、医師になったとか。さすがです」 「パパンドレウさん、僕は あなたに お会いしたとこがありましたか」 彼が勝手に進めていく話を大人しく聞いているだけでは、自分の知りたいことは永遠に知り得ない。 そう考えて、瞬は彼の話の腰を折った。 パパンドレウ氏が 僅かに顔を歪める。 それは、自分の話を遮られたことに不快を覚えたから――ではないようだった。 不快や憤りというより――彼は切なそうだった――“悲しそう”といっていいほどに、彼の眼差しは切なげだった。 「ハジと 及びください。やはり憶えていらっしゃいませんか」 「す……すみません」 「いいえ。あなたは そういう方だ。命を救った人間のことを いちいち記憶に留め、その報いを得ようなどということは考えもしない」 「え……」 “命を救った人間”――それは、彼が瞬に命を救われた人間だということなのだろうか。 パパンドレウ氏に そう言われて、瞬は 初めて気付いたのである。 自分が記憶に留めているのは いつも、自分が倒した敵のことだけだということに。 自分が戦って 命を奪った相手への悔恨ばかりが 鮮やかに、瞬の心と記憶には刻み込まれていた――。 パパンドレウ氏が、そんな瞬を じっと見詰める。 濃褐色の瞳。 その瞳の中で、瞬は反応に窮した。 「もう 十年以上 前のことになります。私は あなたに命を救ってもらった。あの頃、私は かなり自暴自棄な気持ちになっていて、そして、飢えて死にかけていた。死ぬ覚悟をしていた。あなたは そんな私を助けようとした。あの時、あなたはまだ子供で――おそらく 十代半ばだったでしょう。だが、あなたは 私より はるかに大人だった」 十年以上前、瞬が十代半ばの頃というと、瞬はまだ青銅聖闘士だった。 今の瞬には、“あの頃”は 遠い昔のようであり、つい昨日のことのようでもあり――あの頃、アンドロメダ座の聖闘士が彼に出会っていたのだろうか? 「あの年は奇妙な年でしたよ。世界規模の大洪水に、時ならぬ日食。人々の心は不安で乱れ、すさみ、アテネの町は――世界中がそうだったのかもしれないが――世界の終末を予感した者たちによって、町中 至るところで、暴動や略奪が起きていた。誰もが自分のことで手いっぱいで、家族も 住む家もない孤児のことなど、誰も気に掛けなかった。暴動に巻き込まれて怪我をして、飢えて、私は死にかけていた。半ば以上 破壊されたアテネの町。私は、どうせ死ぬなら、もっと静かな場所で死にたいと考えて、アテネの町を出て――不思議な場所に迷い込んだ。人の姿が全くない、岩ばかりの――少し離れたところに、アテネ育ちの私ですら知らない遺跡のような神殿が見えていた……」 「……」 それは“聖域”のことなのか。 女神アテナの結界に守られて、一般人には容易に見付けられない場所。 だが、あの頃、アテナの結界には ほころびが生じていた。 「死を覚悟して目を閉じて――再び 目を開けると、そこに澄んだ瞳の美しい少女がいて――最初、私は、この岩だらけの場所は天国なのだろうかと思いましたよ。だとしたら、私は死んでいるはず。なのに、空腹で胃が痛い。私は、目の前にいた天使に、言うに事欠いて、『食い物をくれ』と言ったんです。澄んだ瞳の天使は、すぐに姿を消して……だから、私は、ここは天国ではなく地獄なのだと思い直した。自分がまだ生きていることに 私が気付いたのは、一度 姿を消した天使が戻ってきて、私にパンとミルクを差し出した時です。紙パックのミルクが天国や地獄にあるはずがない」 「……ええ」 「自分が求めたものなのに、私は それを すぐには受け取らなかったんです」 「……」 そんなことがあった――ような気がする。 冥界から帰還して、まもなく。 前聖戦の時代に飛ぶ前か、そのあとか――。 「私は、差し出されたパンを受け取らなかった。私には、そんな親切をしてくれる人の存在が、その心が 信じられなかった。これが天使ではなく人なのであれば、それは罠に決まっている。この天使のような人は、何か よからぬ企みを持っているのだと思った。当時の私は、人間というものに対する不信感でいっぱいで、人の親切を素直に受け入れることのできない子供だったのです。私は天使のような人の差し出したものを依怙地になって拒み、そして――」 |